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大名の転封と村の様相−情報伝達の速さに驚き


武蔵国への転封を知らせる御用触状留(大塚甫氏所蔵)

武蔵国への転封を知らせる御用触状留(大塚甫氏所蔵)


 今の三重県は、江戸時代には大名領や幕府領、伊勢神宮領など様々な領地が複雑に入りくんでいた。なぜ、このような複雑な領地ができたのか。それは徳川政権の誕生とともに大名を転封(てんぽう)させ、各地に配置替えしたことにも原因がある。この転封は大名家にとっては大変であり、どのように進められたか、また、村々では大名の転封をどのように受け止めていたのか、文政6年(1823)に行われた桑名藩の転封事例を取り上げてみる。
 桑名藩主松平下総守家は、3月24日に江戸城において武蔵国忍(おし、現埼玉県行田市)への所替を仰せ付けられた。早速、家中への触れが出され、引越しの準備が始まった。4月には家中の武具の明細を書き出し、5月には女子や家内人数調査の指示や家中への引越費用に関する触れが出されている。また、5月29日には城の受渡役が決められ、桑名城受取の幕府役人二人も伝達された。
 その後も幕府役人受入れや新しい領地へ出立の準備がこと細かくなされ、9月28日には幕府役人二人に桑名城を引き渡した。半年以上もかかっていることになるが、実際には更に10月ごろまで残務整理が続いたらしい。このとき台所奉行を務めた藩士の「公私覚書」にはそう記録されている。
 一方、この時期桑名藩領であった豊田一色村(現川越町)の庄屋文書を見ると、3月28日に所替の通達を書き記した書状が回ってきている。それにしても、江戸城での所替の通達からわずか4日後である。江戸時代の情報伝達の早さも捨てたものでない。その意味でも驚きである。
 しかし、それ以降は村々に殿様引越に関する触れはなく、いつもと同じ生活が営まれていたようである。ただ、9月になると、幕府役人に対して無礼がないようにとか、所替についての幕府の指示を庄屋や村役人は高札場(こうさつば)で見るようにといった触れもあるが、殿様の所替によって村の人たちが右往左往するといったことはなかった。
 しかし、ほかの村では新領主との引継期間中に村の積立金をめぐる騒動が起こっており、平穏無事にいかなかった村もある。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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