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長田川、重要な役割担う−伊賀経路絵図に著名絵師を登用


県庁所蔵『伊州上野長田川筋城州笠置迄絵図』

県庁所蔵『伊州上野長田川筋城州笠置迄絵図』


 本欄では、「四日市港近傍町村之図」(第3回)や「鳥羽城之絵図」(第66回)など、これまでに県庁が所蔵するいくつかの絵図について取り上げてきた。今回、ここに紹介する『伊州上野長田川筋城州笠置迄絵図』もその一つで、3巻の折本からなる美麗な絵図である。
 名前のとおり長田川(木津川)の河川絵図で、伊賀上野(現伊賀市)から笠置(現京都府相楽郡笠置町)までの流れとその周辺が描かれている。
 上之巻は「伊州上野長田橋」から「猿飛」までを54折で、中之巻は「城州大河原領猿飛之下字松台平尾」から「南大河原字恋慕谷」までを47折で描く。そして、下之巻は「城州上有市村字登々」から「笠置浜」までを20折で描いている。
 絵図はきわめて精密で、画中の細かい描写もさることながら、図中にはいくつもの折線があって、実際の川の流れのように折り曲げて見ることができるようになっている。おそらく、体育館のフロアなどに広げたならば、非常に臨場感のあるものになるのではないだろうか。
保存状態も良好で、彩色も美しい。三重県庁所蔵絵図類の中でも屈指のものである。
 この絵図が作成された理由や、県庁文書として保存されてきた経緯は、残念ながら「鳥羽城之絵図」などと同様に明確でない。
 しかし、絵図作成の1811(文化8)年前後には、長田川通船に関して次のような動きがあった。
 当時、江戸と関西を結ぶ物流ルートは、江戸・大坂間の海運が一般的で、「菱垣廻船」あるいは「樽廻船」と言われる廻船問屋が大きな力を持っていた。
 1809・10年頃、菱垣廻船の難船が相次ぎ、その難船に対する負担が多くなった。江戸の大伝馬組木綿問屋は、これらの負担をめぐって菱垣廻船と対立し、京荷物や大坂下り荷の伊賀廻し陸送・白子積みを積極的に企画することになる。
 そのためには、長田川の通船が重要であった。その通船の中心になるのが京都の豪商・角倉(すみのくら)家で、10年には長田川の開削及び通船願いを津(伊賀)藩に提出した。それに対し、津藩では調査や伊賀の郡奉行や城和奉行などの意見聴取を行い、また、12年には角倉家が江戸表の関係筋の了解を得た。そして、工事も進められ、15年には長田川の通船が開始されたのである。
このあたりの事情については、『島ヶ原村史』や『三重県史』資料編「近世4(上)」に史料が掲載され、説明がなされている。おそらくは、こうした状況の中で、この絵図が作成されたのではないかと考えられる。
 一昨年の「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に際して行われた木津川川下りイベントの終点、大阪南御堂において展示され、話題にもなった。
 しかし、この絵図を描いた絵師については、前述の『三重県史』でも全く触れられていない。
 作者の速水春暁斎は京都の絵師で、1767(明和4)年に生まれ、1823(文政6)年に57歳で没している。家は呉服商で、屋号を日野屋と称した。13歳で家業を継ぎ、27歳で隠居、1816(文化13)年に再び家督をついで家名を相続した。絵を円山応挙に学んだとも言われ、1800年頃以後、多くの絵本読本を刊行し、挿絵を提供していることで有名である。また、彼の息子も春暁斎(二世)を名乗っている。
 数年ほど前に出版された『国書人名辞典』の「速水春暁斎」の項によれば、著作として『伊賀上野長田川筋城州笠置迄絵図』が紹介されている。県庁所蔵のもの以外にも、同様の絵図があるようであるが、いずれにしても彼の代表作と言えるものである。長田川の通船という重要事業に関係すると見られる本絵図の作成を、角倉家が速水春暁斎に依頼したことも十分に考えられよう。
 県史編さんグループでは、所蔵資料展示会を三重県民センター6階で12・13の両日(10時から16時、13日は15時まで)に開催する。この絵図も展示を予定しているので、この機会にご覧いただければと思う。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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