村役人の説得に応じず−米求め押し寄せた農民
「天明七年未年六月村々百姓御城下江下リ候日記」(西家文書)
1995(平成7)年3月から98年まで約4年、県史編さんのために、紀和町和気(現熊野市)の西家文書の史料調査を行った。全18、000点にも及ぶ膨大な史料群で、調査には随分時間がかかった。
最近、熊野市の方から「天明の飢饉(ききん)」に関する地域の史料を尋ねられて、西家文書中に天明期に百姓たちが新宮城下に押し寄せた記録があることを思い出し、今回ここに取り上げてみた。
「天明の飢饉」は有名で、全国的なものであるが、紀州藩でも1783(天明3)年に「紀州勢州御領分御損亡」と飢饉の予兆が見られ、86年には「打続凶作にて」人々が苦労していた。特に紀州藩田辺領(現和歌山県)では、同年末から翌年正月にかけて、打ちこわしも見られたらしい。
そんな中、紀州藩新宮領(現和歌山県・三重県)でも、「百姓」が新宮城下へ押し寄せ、「御救い米」を要求するという騒動が起きた。
まず84年2月、新宮領三ノ村組大庄屋である西与茂七は、管下の村々の弱人・飢人の家数・人数を書き上げ郡奉行に提出した。それによれば、「弱人家数137軒・人数613人、飢人家数97軒・人数381人」で、その後も状況は好転しなかった。そして、87年3月にも「村々飢人書上帳」を作成し、「家数138軒・総人数581人」と「飢人」が増加した状況を訴えた。
しかし、6月になっても回答がなく、百姓たちは「御救い米給付のお願いをしていたが、待ちきれずに(新宮)城下へ罷り下り申すべくと評定」し、それを行動に移した。
6月4日には、庄屋・肝煎など村役人の新宮行きの差し止めの説得にも関わらず、三ノ村組所属の能城(のき)村45人・日足村35人・相須(あいす)村(いずれも現和歌山県)12人、合計92人の飢人・弱人らが「救い米給付嘆願」のため新宮の大庄屋詰所へ押しかけた。翌日には楊(よう)枝(じ)村(現熊野市)8人・志(し)古(こ)村(現和歌山県)3人も駆け付けた。このような騒動に対して、大庄屋は庄屋・肝煎などの村役人に百姓らが帰村するよう説得を指示するが、百姓は帰らなかった。さらに、大庄屋は村役人に対して新宮へやってきた百姓らの名前を書き上げるようにも指示を出した。
翌5日、村役人は再度百姓らに意見をし、帰村をうながすものの、百姓らは「『手みやげ』を持たずに帰村することはできない、御救い米があるまで大庄屋に御苦労をかける」と言って帰らなかった。
その後の交渉経過は不明であるが、この行動が功を奏したのか、6日には百姓らは残らず帰村し、そして6月10 日以降、三ノ村組所属の村々へ御救い米が給付されている。飢人には米6合・弱人には4合、総計では飢人428人・2石5斗余、弱人349人・1石4斗余、合計で777人・3石9斗余であった。
これによって一連の騒動は終わり、7月2日以降はこの騒動の責任や処罰の確定のために能城・日足・相須村の村役人らの取り調べが行われた。それに先立ち騒動に村役人がどのように関与していたのか、「御尋ニ付口上」という調書もあり、ていねいに読めば更に詳しいことがわかる。
この騒動は、打ちこわしもなく、百姓が新宮城下へ押し寄せ嘆願を行ったものである。ただ、当時はこのような騒動に対しても一揆につながるものとして厳しく処罰されるのが普通であったが、ここでは村役人の取り調べだけで終わったようである。
(県史編さんグループ 藤谷 彰)