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明治まで残った赤字体質−亀山藩の財政改善策


加藤家文書「御入用大積帳」(亀山市歴史博物館所蔵)

加藤家文書「御入用大積帳」(亀山市歴史博物館所蔵)


 近年、自治体の財政の再建が話題となっている。単純には歳出入が均衡していれば、借金も出ず問題もないのであろうが、現実はさまざまな課題を抱えているために簡単に解決するものでもない。
 ところで、このようなことは現代に限らず江戸時代の諸藩でも見られた。藩の財政運営は、基本的には村方からの年貢米や町方から冥加金や運上金などの徴収を行い、これを藩主の生活費用・藩の政策費用・家臣団の給米などに当てるというサイクルであり、江戸時代初期はうまく機能していた。しかし、江戸時代も中期になると、藩の出費が多くなり、財政が悪化してくる。
 今、その様子を江戸時代中期の安永5(1776)年〜6年の予算書に当たる亀山藩家老であった加藤家の文書『御入用大積帳』から見てみよう。それによると、歳入は年貢収納米2万4千石と、飛地(とびち)である備中国(現岡山県)からの収入2千9百両であった。ここから家臣給米などが7千4百石ほど必要で、それを差し引いた残米を売り払って金に換算し、飛地からの収入を含めて1万6千9百両ほどとなった。これなら財政は黒字であるが、更にここから江戸参勤による藩主らの滞在費用や京・大坂屋敷費用、それに商人へ借金返済を行っている。ちなみに、江戸滞在費用は6千5百両、京・大坂屋敷費用8千2百両、借用返済金3万1千両であり、合計4万5千7百両にもなった。さらに雑税の支払い等により、結局3万3百両もの赤字というわけである。
 次に、この不足金をどう処理するのかが課題となるが、亀山藩はまたしても京・大坂・江戸・亀山の商人から借用を行うことで切り抜けようとした。しかし、この借用金も2万3千3百両しか集まらず、7千両は不足金として計上されたままとなっている。この分については、おそらく商人から更に借金をして解消したのではないだろうか。というのも、安永10年には京・大坂・江戸・亀山の四か所の商人からの借用金は金利を合わせて7万3千5百両にも膨らんでいるからである。
 このような慢性的な財政赤字が続く中で、亀山藩も財政改善策を行っている。たとえば、倹約令の発布、家臣団からの上ケ米の実施、年貢の増収策など種々の政策を展開し、既に借入金の返済計画書に相当するものも作成していた。それによれば、明和4(1767)年当時3万2千6百両ほどあった借用金残高を毎年3千7百両ずつ返済し、2年目以後は年利2%を加えて返済することで、5年後には借金が1万3千2百両余になるように計算を行っている。計画どおり返済できたかどうかはわからないが、現実には前述したように安永10年段階で多額の借金が累積していた。
 亀山藩だけでなく、諸藩もさまざまな財政改善に努めたのであるが、結局、藩の借金は明治期まで残される。そして、これが解消されるのは、明治政府が行った借金の棒引きや武士階級の給与改定などの政策によってであった。政治体制の大きな変化が関係していたものの、そこには、商人など庶民の犠牲の上に成り立っていたということも忘れてはならない。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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