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多くの作品 重要な画歴に−画家・曽我蕭白 伊勢に滞在


津市上宮寺所蔵「小野妹子・迹見赤檮図」

津市上宮寺所蔵「小野妹子・迹見赤檮図」


 近世、三重県域は上方と江戸を結ぶ交通の要衝に当たり、伊勢参宮客も多かった。全国でも有数の経済活動が活発な地域として発展し、その繁栄を基盤にして高い文化も育まれた。一例をあげると、当地域において、優れた多くの画家が活躍している。
 その中の一人に曽我(そが)蕭白(しょうはく)という画家がおり、近年、特異な作風が非常に高い評価を得ている。彼は、現在の三重県、特に松阪を中心とした伊勢地方に多くの作品を残している。それらは、蕭白の全画歴の中でも重要な位置を占める作品群で、三重県は研究上たいへん注目される地域と言える。
 蕭白は、1730(享保15)年に京都に生まれた。伊勢生まれという説もあるが、近年の研究では、京都の丹波屋あるいは丹後屋と呼ばれる商家の出身と考えられている。幼少期に関する確実な資料はなく、画家を志した時期やその動機についてはよくわからない。やがて高田敬(けい)輔(ほ)という当時の著名な画家に師事したようであるが、その期間や画風への影響等についても不明な点が多い。
 では、蕭白はいつ頃伊勢地方を訪れたのだろうか。
 三重県に残る代表的な作品として、松阪市・朝田寺の「唐獅子図」や同・継松寺の「雪山童子図」、多気郡明和町永島家の「襖絵」(現在、三重県立美術館所蔵ほか)などがあり、これらの作品の落款や印章、作風等から判断して、1764(明和元)年頃に松阪地方に蕭白が滞在していたと考えられる。
 一方、明治時代の終わり頃、岐阜県出身の桃澤如水という画家が伊勢地方の蕭白画を調査し、『三重史談会誌』に報告を残している。
 それによると、津市・西来寺に襖絵があり、「行年二十九歳」の落款が見られたという。また、河芸町黒田の浄光寺壁画には「宝暦九曾我氏三十歳筆」の年記があったらしい。このほか、津市の天然寺や浄明院にも蕭白が滞在していたという。これらの絵画は、残念なことに戦災等によって失われ、現在、わずかに見ることのできるものとして、津市・上宮寺所蔵の「小野(おのの)妹子(いもこ)・迹見赤檮(とみのいちい)図」があるのみである。しかし、この桃澤如水の報告を根拠にして、1758(宝暦8)年から翌59年にかけて、蕭白が津周辺に滞在していたとする説が現在一般的となっている。
 彼が本格的に絵師として活動し始めるのがこの頃であるから、かつては、数多くの初期蕭白作品が津市付近に残されていたようである。まさに宝庫と呼べたかもしれない。
 京都生まれの蕭白が頻繁にこの地方を訪れ、伊勢生まれと言われるほどの作品を残している理由は何なのか。滞在の経緯などを伝える資料は、現時点では発見されていない。
 ただ、間接的な手がかりではあるが、かつて蕭白が滞在したという津の浄明院と、蕭白一族の菩提寺である京都・興聖寺が本末関係にあることが指摘されている。また、浄明院は三代藩主高久が菩提所とした寺院であるが、興聖寺も藤堂藩から多くの援助を受けている、藤堂家ゆかりの寺院である。さらには、蕭白の門人と言われる浄明院の頑(がん)極(ぎょく)は、一時期興聖寺の住職を務めていたとも伝えられる。つまり、興聖寺は津市浄明院との本末関係、藤堂家の庇護、門人頑極の存在という3点において、伊勢地方との密接なつながりが見えてくる。
 一方、これとは別に、蕭白の出自が京の紺屋であったとする京都の骨董商からの伝聞が伝わっており、家業上の人脈を頼って木綿産地の松阪地方と何らかの関係を持って、この地で制作を行ったとする説もある。
 いずれにせよ、彼の出自や家業に何か伊勢地方と深くかかわるものがあり、それが必然的に蕭白をこの地に向かわせたと考えたい。言わば蕭白の伊勢地方への滞在は、経済的に豊かで恵まれた地域を舞台にして、絵師として生計を立てていくための、積極的かつ計算された行動ではなかったかと思われる。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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