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救世のため断食、絶命−「冨士講」発展の祖 身禄


一志郡美杉村川上の生家に建つ身禄の碑

一志郡美杉村川上の生家に建つ身禄の碑


 新年を迎えたこの時期、年賀状やカレンダーなどの絵や写真に、山頂に雪を頂いた富士山をよく見る。富士山は、言うまでもなくわが国の最高峰であり、その姿も際立って美しい。また、幾度も大噴火を繰り返しており、古来霊峰として、多くの人々から畏敬と深い信仰を集めてきた。
 近世になると、富士行者によって江戸市中を中心に富士講が組織されてくるが、その発展に際して中心となった食行身禄(じきぎょうみろく)という人物がいる。
 食行身禄は、1671(寛文11)年に伊勢国一志郡川上村(現一志郡美杉村川上)の農家に生まれた。幼名を善太郎、長じては俗名伊藤伊兵衛と名乗った。13歳のときに江戸に出て、遠縁に当たる富山清兵衛が経営する呉服雑貨商に奉公した。やがて独立すると、付木・茶袋・灯心などの行商を経て、油商の店を開く。商売はうまくいったようで、かなりの資産を成した。つまり、彼は当時の江戸で成功した裕福な伊勢商人の一人であった。
 また、17歳のとき、富士講の五世行者月行■■(そうじゅう 曾にりっとう・りっしんべんに中)に出会って富士信仰に入ると、それを心の支えとして商業活動に精を出した。当時、■■の富士講は、主流であった村上清光の派に比べると、江戸ではあまり有力な集団ではなかった。しかし、朝夕の水垢離(みずごり)や毎年の富士登拝などを熱心に行い、1717(享保2)年、■■の死に伴って身禄が六世行者となった。1729(享保14)年には、教義書『一字不説の巻』を著し、独自の詠歌も作るなどしている。
 翌年、富士山に登拝した身禄は、山頂で富士山の神である仙元大菩薩にまみえたとして、8年間の苦行後、ここで生きながら死んでいく、「入定(にゅうじょう)」を誓う。そして江戸に帰ると、これまでに築いた財産のすべてを縁者などに分け与え、自らは髪油や灯油の行商を行いながら熱狂的な布教活動を展開した。その過激なまでの姿に人々は驚き、さげすんだりしました。
 翌年には、江戸巣鴨の自宅前に「身禄(弥勒)の世」到来を告げる高札を立て、1732年には、世を救うために予定を早めて入定することを決意した。その背景には、この頃相次いで起こった飢饉や物価の高騰、一揆、打ちこわしなどの社会的不安をあげることができる。翌33(享保18)年、身禄は富士山の烏帽子岩で断食入定を始めた。高弟の田辺十郎右衛門父子に「三十一日の巻」を口述し、約一ヵ月後に絶命した。身禄入定の知らせは、十郎右衛門によって江戸に伝えられ、市中では瓦版が出たという。
 身禄の死後、江戸では俗に富士八百八講と呼ばれるような爆発的な講の結成が見られ、身禄派が繁栄する。その教えは次第に整えられつつ引き継がれて発展し、1838(天保9)年には、武蔵鳩ヶ谷宿(現埼玉県鳩ヶ谷市)の小谷三志(さんし)による不二道が創出された。
 三志は、身禄の生地を訪れて教典を奉納しており、その目的は、伊勢川上を富士山に継ぐ第二の聖地とすることにあった。道中の様子が『伊勢川上開道記』に記されているが、道を開くということから、開道と称された。
 その後、川上を訪れる富士講も増え、節目となるような年忌の年には、多数の人が詣でたという。身禄生家には、今もその子孫の方がお住まいで、幼い頃には大勢の人が訪れてきた記憶があるという。そういったことが、昭和の初めまで続いていたらしい。しかし、今は訪れる人もいない。地元においてもあまり知られていないが、生家には子孫の方によって碑が建てられ、その顕彰に努めておられる。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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