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直轄地が次第に−伊賀国の知行地・蔵入地


写真 享保年間の「(伊賀国村明細帳)」

写真 享保年間の「(伊賀国村明細帳)」


 先々月、NHKの「その時歴史が動いた」という番組で藤堂高虎が取り上げられてから、高虎や藤堂家についての質問が県史編さん室に相次いでいる。県立博物館にも多いらしい。また、先週の3日には、恒例の「高虎楽座」というイベントも津市内で行われた。
 藤堂高虎は、1608(慶長13)年に徳川家康より伊賀一国と伊勢国の一部を宛行(あてが)われた。以来、明治期まで変わることなく、藤堂藩がこの地域を支配した。そこで、今回は藤堂藩が行った家臣への給与地としての知行地の割当方法、特に伊賀国の様相についてながめてみよう。
 高虎は、入封の翌年、前領主時代の年貢高を参考として算出した「平(ならし)高(だか)」を採用した。この「平高」というのは、簡単に言うと、伊賀・伊勢国入封に伴って増加した家臣への知行地確保と藩に入る年貢高を安定させるため、領内の元の石高を見直し、それに税率を掛ける方法で、ほとんどの村では元高よりも平高の多くなった。この平高によって家臣へ知行地を宛行って在地支配を行わせ、その残りは藩が直接支配を行う蔵入地とした。家臣知行地の設定は、武士に課せられた軍役(ぐんやく)、武士として格式を重んじたからと考えられるが、高虎当時の知行地と蔵入地の割合は不明である。ただ、高虎死後直後の1630(寛永7)年の伊賀国の知行地は9万7千石余、蔵入地は5万石余で知行地が多かった。ところが、時代が経つと、家臣の知行地経営の悪化のため、知行地を返上し俸禄をもらう家臣が増える傾向も見られ、それに伴って蔵入地が増加していった。
 最近、県史編さんの参考として購入した古文書群の中に、江戸時代中期、1716〜35年(享保年間)の伊賀国村々の様子を書き記した「(伊賀国村明細帳)」がある。そこには、前述したような知行地や蔵入地についての情報も含まれている。
 伊賀国は、幕府から認められた朱印石高は10万5千石であるが、平高での合計は14万7千石余であった。その内訳は阿拝郡6万4千石弱、伊賀郡4万1千石余、名張郡2万3千弱、山田郡1万9千石余であった。そして、これら知行地・蔵入地の割合は、全体で知行地が3万2600石余、22%、蔵入地が11万4600石余、78%である。
 郡別では阿拝郡・山田郡は80%以上が蔵入地であった。それに対して伊賀郡・名張郡は蔵入地が60〜70%、残りが知行地で、四郡のうちでは知行地の割合が高い。伊賀郡には藤堂新七郎・藤堂玄蕃の知行地が8千石余あり、名張郡は7千石の知行地のうち、5千石が名張に本拠を置く藤堂宮内の知行地であった。
 また、村々の蔵入地と知行地の混在割合の様子を見ると、蔵入地だけの村は47・7%、蔵入地と知行地の混在村は41・5%、知行地のみの村は10・8%であり、藩と直接関連する村が約90%もあった。また、知行地の支配は、一人の家臣が一村丸ごと支配しているのではなく、村落を分散して何人かの家臣が支配し、禄高の多い家臣の知行地はいくつもの村々にわたっていた。すなわち、家臣の知行地を分散したのであり、それも藤堂藩の支配形態の大きな特徴であった。
 このように、この史料からは伊賀国の支配形態の特色が大まかに把握できる。時代を経るに従って、藩直轄地(蔵入地)が増加するが、特に阿拝郡・山田郡の割合が高かった。それは、阿拝郡の上野城には伊賀国支配拠点として城代が置かれ、上野城下には大和街道・伊賀街道が通り、交通の要所となっていたため、藩直轄地を多くしたと考えられる。それに対し、南伊賀の伊賀郡・名張郡には比較的知行地を多く設け、名張陣屋には津藩最大の給人である藤堂宮内を配置し、他の家臣とは異なり名張藤堂家として別格の扱いをしていた。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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