彩色豊か「鳥羽城之絵図」−板倉氏国替の際に製作か
鳥羽城之絵図(三重県庁所蔵)
本年夏、県史編さんグループでは、夏休みの小中学生を対象にして「古地図で知ろう!私たちの三重」と題した体験講座を開催した。
これは、県史編さん室で保管する原本資料の中から、江戸時代の国絵図や明治時代の三重県地図等、「実物」を用いて県の歴史を振り返るというものであった。
20名近い参加者があったが、やはり本物の持つ力は大きく、全員が熱心に見入っていた。とりわけ、江戸時代の大型絵図は彩色も美しく人気があったが、特に参加者の目を引いたのが「鳥羽城之絵図」であった。これは、県史編さん室保管絵図の中でも大型のもので、180p×200pという、ほぼ畳2畳分の大きさである。
鳥羽城は、1594(文禄3)年に九鬼嘉隆が築城した海城で、海に突出した島の周囲全体を石垣で囲み、島内の小山を利用して堅固な城と城下を形成している。大手門(城の正門)が海に向くという他に例を見ない構造となっており、いかにも水軍を率いた九鬼氏にふさわしい姿の城という印象が感じられる。
このように、絵図には城やその周辺の様子が、詳細な色分けによって描かれている。製作年の記載はないが、侍屋敷に記されている家老や年寄の人名から判断して、板倉重治が藩主であった期間、1710(宝永7)年から1717(享保2)年にかけての7年間に作られたものとわかる。
また、絵図中には海に面した何ケ所かに「流出屋敷」、「此櫓流失」といった書込みが見られる。これは、板倉氏が入封する前の1707年、大地震による津波が伊勢志摩地方に発生しており、その時の被害が完全には復旧していないことを示しているものと思われる。
その後、板倉氏はもとの領地であった亀山に再び転封となり、代わって山城国淀城主松平(戸田)光慈(みつちか)が鳥羽城主となる。東京にある徳川林政史研究所が所蔵する戸田家文書の中に、淀・鳥羽入替の記録が残っている。これは、鳥羽城を明け渡す際に製作されたもので、屋敷や武具、船などの数や藩内の様子がこと細かく記載されている。これは『三重県史』資料編「近世2」に一部翻刻されているが、その中に非常に興味深い記述が見られる。
それは、「一、城絵図弐枚差出申候」とあって、鳥羽城の引渡しに際して絵図2枚が作製されたというのである。また、記録の中には「櫓三ヶ所」が津波によって流失し、今もそのままになっていることや、「侍屋敷弐拾壱軒」が同じく流され、今も時々潮が入って来るために再建されていないことなどが記されている。流失した3か所の櫓について言えば、絵図に記された箇所と記録の記述は驚くほど一致する。おそらく、同じ時期に作成されたものであろう。
さらに、「鳥羽城之絵図」のように良質な用紙を用いた本格的な彩色絵図が、何の目的もなしに作成されたとはとても考えられない。断定はできないが、この絵図は、国替に際して製作された2枚のうちの1枚である可能性が非常に高いと言える。ただ、それがどうして県庁に伝わったのかは明らかではない。
(県史編さんグループ 瀧川 和也)