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「5年分の帳面を手元に所持」−庄野宿の文書保存 現在と類似


1708(宝永5)年「相定之証文」(鈴鹿市庄野町自治会所蔵)

1708(宝永5)年「相定之証文」(鈴鹿市庄野町自治会所蔵)


 県史編さんグループでは、現在、『三重県史』の編さんとともに、歴史的な公文書の選別作業を行っている。公文書の選別作業は、5年・10年・30年という行政上の保存期間が済んだ県庁文書の中から将来に歴史や文化を語り継ぐのに必要な文書を選択しようというものである。もちろん、すべての文書を保存していければ良いが、保存施設などの問題もあって、そうもいかない。
 江戸時代に作成された庄屋文書などは、今でこそ個人や地域共有の所蔵古文書となっているが、もともとは日々の公的な業務に必要があって作成されたもので、まさに公文書であった。
 今回、江戸時代の公文書の一つとして、東海道庄野宿(しょうのじゅく)の史料(庄野宿文書)を紹介しよう。それは「相定之証文」と題された1708(宝永5)年2月の文書である。
 まず、この「証文」を要約すると、「庄野町の御年貢と年中の諸入用は、役人・百姓代が立ち合って検討し、個々の割付帳面を作成した。すべての百姓にその帳面を読み聞かせ、役人・百姓とも納得した。このことについてはいささかの申し分もない。その上で、宝永4年以前の地下諸帳面を相談の上で焼き捨てた。このことも一切申し分はなく、仮にどんな文書が出てきても反故(ほご)にする。今後は、5年分の帳面を庄屋の手元に所持して、5年が過ぎたら焼き捨てるように取り決めてこの証文とした」とある。そして、庄屋・問屋・年寄のほか住民169名が署名、押印している。
 これは、年貢や町の諸入用、今日的に言えば町が負担する税金と町自治会費の取り決めであるが、諸帳面の廃棄にも触れている。江戸時代の文書では「後世のためにこの文書を保存する」というような記述は多く目にするが、文書廃棄について記された文書は珍しい。
 実際、現在保存されている庄野宿文書全般を見てみると、1707(宝永4)年以前の文書は検地帳をはじめ土地関係史料など数点があるだけで、諸帳面類はなく、文書廃棄が実施された可能性は高い。また、「今後は5年分の帳面を庄屋の手元に所持して、5年が過ぎたならば焼き捨てる」というシステムは、現在の行政文書の保存規定とよく似ている。
 近年、江戸時代の文書整理・保存に関する研究が種々なされているが、江戸時代は先例に縛られ、そのために必要な文書を徹底して保存・管理したという見方が強い。この庄野宿文書の文書保存システムは、そうした一面とは別に、構成員で文書の保存年限を協議し定めており、当時としては斬新なものでなかったかと思う。
 ただ、そのときは文書のもつ将来の歴史的・文化的な価値という判断はなかった。それもそのはず、公文書の歴史的意義を重要視し、保存を訴える声が高まってきたのは、第2次大戦後の1950年代からである。さらに、これら文書の歴史的価値判断は当事者ではなく、客観的な立場から行う必要があり、それが公文書館の役割でもある。県でも公文書館設置に備えて県庁公文書の選別作業を進めている。江戸時代の文書は、既にいくつかの選別の経緯があって長い年月保存されてきているわけで、今後も後世にそれを継承していかねばならないと痛感している。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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