17か条の規約で秩序維持−「若者組」の詳細明らかに
『元禄十四甲巳年 若衆従古来仕来帳』(伊勢市楠部町区有文書)
寺社境内の古い石造物などには、奉納者として「若連中」・「若衆組」あるいは「若者組」と刻まれているのをよく見掛けられるであろう。
これらは、江戸時代に組織された青年集団で、普通「若者組」と総称される。一般的に数え15歳以上の村の男子によって構成され、「若者入り」を果たした者は、「一人前」とみなされた。若者組の役割は、防犯・防災など治安活動、災害時の救助活動、普請時の労働力の提供のほか、祭礼の手伝いや獅子舞・盆踊りなど、村の信仰や芸能面へも関わっていた。組の中で年長者から礼儀や村の慣行、更に性の知識などについて教育を受けた。このように、若者組は村政の一翼を担うだけでなく、社交の場であり、教育の場でもあった。そして、この若者組が時代を経て青年会や青年団として再編成されてきたのである。
ところが、三重県域内の若者組の実態は、実のところあまりわかっていない。かつて志摩地方の離島に色濃く残る「寝屋」制度に関して民俗学からのアプローチがあったが、文字記録がほとんど無いことから、江戸時代の若者組については、古老の聞き取りから状況をしのぶ程度であった。
また、『三重県警察史』にも、鳥羽藩は若者組を五人組に組み入れて積極的に利用し、津藩では早くから厳しく若者組設立を禁止していたと記されている。確かに、『日本庶民生活史料集成』に収められた鳥羽藩領甲賀村(現志摩市)の「若者中七ヶ条定書之事」は、単に村役人が若者組の行動を規制したものである。さらに、津藩領粟加村(現安濃町)庄屋文書中の1791(寛政3)年7月の藩達しは「若者社中等と相唱江候儀堅相止メさせ不法之儀無之様」と、若者組設立を禁止している。いずれも若者組を取り締まる内容で、これからは若者組の活動実態は見えない。
そんな史料しか見当たらない中で、最近になって、1989(平成元)年に調査した伊勢市楠部町区有文書の中に若者組関連の詳しい史料があると同僚から情報を得た。早速読んでみると、驚いたことに元禄年間から幕末にかけて楠部村内の若者組の活動が随所に記されていた。これで少しでも実態に迫ることができる。
それに、特筆すべきは1701(元禄14)年の『若衆従古来仕来帳』と題した史料である。その冒頭に「若衆従古来申合」と題して17か条に及ぶ組内規約が書かれていた。元禄期の若者条目は全国的に見ても発見例が少ない。参考として『日本庶民生活史料集成』に掲載された122の事例のうち、元禄年間以前のものはわずか3例しかない。
組内条目の内容は、会合や村仕事などの場での若者組一員としての心構えや牛馬の管理について、違反時の罰則も含め示されている。末尾にはこれに背いた者は「仲間ヲ除」くと記され、厳しい制裁を設けて組の秩序を保ったらしい。
また、楠部村では彼らを「若衆(わかいしゅう)」・「若キ者」と称し、1733(享保18)年当時、村全体で36名の若衆がいた。彼らは居住地を単位に北村若衆・下村若衆・尾崎若衆・中嶋若衆に分かれ、入会山監視など村の「諸番」を勤める際には、この4つの若衆が輪番で行っていた。
当番の時、村法に違反した者を見つけ場合は過料(罰金)を徴収し、過料の額によって褒美が与えられていた。過料の徴収は公正を重んじ、もし贔屓(ひいき)するものがあれば「仲間ヲはね」られた。
こうした若者組の行動は、独自の判断ではなく、村運営の中核を担った「年寄衆」の監督のもとでなされた。だが、年寄衆の判断が若者組の意に染まない場合は年寄衆に対しても相論に及び、1733年にはその例がある。
現在、楠部町区有文書は伊勢市史編さん室の本格的な調査が行われている。これによって、更に多くの若者組関係の史料が確認されるであろう。そうなれば、若者組の実態がより詳細になる。
(県史編さんグループ 石原佳樹)