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比丘尼が説いた老いの坂−熊野観心十界曼荼羅


熊野観心十界曼荼羅(一志町 平楽寺所蔵)

熊野観心十界曼荼羅(一志町 平楽寺所蔵)


 今月末か来月初めには、「紀伊山地の霊場と参詣道」として熊野街道が世界遺産に登録される予定である。紀伊半島南端部の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社は、「熊野三山」と総称され、主要な霊場の一つである。信仰は平安時代に始まり、中世から近世初期にかけては、男女や身分の差を問わず多くの参詣者を集めた。当時、信仰の普及拡大に努めた「熊野比丘尼(びくに)」と呼ばれる女性の宗教者がいるが、彼女らが勧進の際に携行した「熊野観心十界曼荼羅(くまのかんじんじっかいまんだら)」という絵図がある。
 縦1・5メートル、横1・3メートル前後の大きさで、何枚かの和紙を貼りつないで画面を構成している。通常は掛幅仕立てであるが、かつては本紙画面のみを折りたたんで持ち運んだらしく、折目の痕が明瞭に残るものが多い。
 画面上半分に虹のような半円形の道を描き、そこに25人ほどの人物が置かれる。右端が生まれたばかりの赤ん坊で、それが成長するにしたがって幼児から少年・少女、やがて青年という具合に左方向へと描かれ、さらには壮年から老人へと人の一生を順に配し、最後は墓地が描かれる。「人生の坂道」あるいは「老いの坂」と言われるもので、その半円形のほぼ中心に当たる部分には、白地に金色で「心」の一文字が大きく表され、さらにそこから細い朱線が伸びて十の世界、すなわち十界を区切っている。
 画面下方には、十界の中でも地獄・餓鬼・阿修羅・畜生の四世界が描かれ、特に地獄の様子は画面下半分の多くを占めている。また、その描写は非常に生々しく、見る者に強い恐怖感を抱かせる。
 熊野比丘尼は、この絵を往来にかけて「絵解き」と呼ばれる解説を行い、熊野への参詣や募金を勧めた。その様子は、桃山時代の屏風絵中に見ることができる。
 1983(昭和58)年、明治大学の萩原龍夫教授がこの曼荼羅を紹介された時、全国にわずか9点が確認されていたに過ぎなかった。しかし、その後の調査によって今では40点以上が確認され、何種類かの図柄が存在することも明らかになってきている。三重県は、全国で最も残存数が多く、およそ4分の1に当たる10点ほどが確認されている。
 一志町の平楽寺に伝来する熊野観心十界曼荼羅は、6年程前、地元の資料調査員の方から報告があって、県史編さん事業の一環として調査を実施した際に、涅槃図とともに見つかったものである。県内で最も新しい発見例である。裏書きによると、妙真尼という熊野比丘尼とおぼしき一人の尼がこの絵を壁にかけて昼夜念仏していたとあり、死後、寺に納められて法要のつど掲げられていたが、傷んできたために1766(明和3)年に修理したという。
 熊野比丘尼については、絵解きの実態や曼荼羅制作工房の所在地等よくわからないことも多い。平楽寺の曼荼羅は、熊野比丘尼が地域社会に受容されていく過程がうかがわれる非常に珍しいものである。さらに、図柄も古い要素をもつと言われているが、修理年から18世紀前半もしくはそれ以前に制作年代が特定でき、そうした意味でもたいへん貴重である。
 三重県では、今後も発見される可能性が十分にあり、こうした資料の充実によって、熊野比丘尼の活動形態が明らかになることが期待される。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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