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ノミ痕に独自の精神性−諸国遊行で造仏した円空


津市真教寺の十一面観音立像

津市真教寺の十一面観音立像


 江戸時代前期、造仏活動を行いながら諸国を遊行した「円空」という僧侶がいた。彼が生涯をかけて彫った仏像は、当時の形式化した職業仏師の像とは異なり、作者の持つ宗教的な精神性が粗削りの作風の中に見事なまでに表現されている。それらは今も高い評価を得ていると同時に根強い人気を誇っており、円空仏に関する展覧会や出版物も多数見ることができる。
 円空は、寛永9(1632)年に美濃国竹ヶ鼻(現岐阜県羽島市)に生まれた。若くして出家したのち、美濃・飛騨地方から東日本を中心として諸国を巡り、遠く北海道にもその足跡を残している。また、12万体の造仏を祈願したと伝えられ、現在、大小四千体を越える仏像が確認されている。そのほとんどは生まれ故郷の中部地方を中心に残されており、円空作品全体の約9割を占めている。最も数が多いのが愛知県で、次いで岐阜県である。
 延宝2年(1674)の夏、円空は志摩地方を訪れている。阿児町立神に伝来する大般若経の付属文書には、同年6月から8月にかけての約2ヵ月間当地に滞在し、巻本を折本に改め、欠本22帖を補足したことを記している。円空は大般若経補修の際に扉絵を描いており、これらは数少ない絵画作品として注目される。また、同様の扉絵が志摩町片田の大般若経にも描かれている。
 仏像も、阿児町立神・少林寺の善女龍王像や観音像、志摩町片田・三蔵寺の聖観音像、磯部町・薬師堂の薬師三尊像等が伝来しており、いずれも木目やノミ痕を効果的に残した円空独自の作風を示している。
 同じ頃の作として、津市下弁財町・真教寺(通称閻魔(えんま)堂)には像高が2mを超える十一面観音立像が安置されている。像は円空が奈良から伊勢・志摩へと向かう途中の制作と考えられ、面長な面貌や微笑、すらりとした長身、左右相対性の強い衣文表現等に、飛鳥・白鳳時代の仏像に学んだあとが認められるとする説がある。他の円空仏には見られないていねいな仕上げが施されているのも特徴で、図像上も儀軌にかなったものである。
 また最近、愛知県西尾市の浄名寺で2メートル70センチの観音像が円空仏と確認された。立木にそのまま彫刻した後に切断したと思われ、名古屋市・観音寺(通称荒子観音)の仁王像(高さ約3メートル)に次ぐ大きさのものである。昭和15(1940)年の『佛堂明細脱編入願』(浄名寺蔵)によると「観音佛像ハ明治二年伊勢國奥坂ヨリ傳来」とあり、明治初年の廃仏棄釈により伊勢から移されたものと思われる。ただ、「奥坂」という地名は廃仏棄釈の激しかった現在の伊勢市には見当らず、当地がどこに該当するのかは残念ながらよくわからない。「奥坂」に思い当たる箇所があれば情報を期待したい。
 今後、このように大きな円空仏が発見されることは、まずあり得ない。しかし、小像については、これから調査が進むにつれ、三重県内でも新たに発見される可能性があるものと思われる。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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