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年貢納入の実態克明に−いなべで発見「皆済状」


寛文12年年貢皆済状 (川瀬家文書)

寛文12年年貢皆済状 (川瀬家文書)


 昨年末に来年度の所得税・個人住民税の定率減税を半減するという記事を目にした。定率減税の縮小は実質的な増税になるために他人事ではない。消費税の議論なども含めて、さらに税が重くのしかかってくるのかと思う。今も昔も納税方法や名目は異なるとはいえ、税金の問題は私たち国民にとって永遠の課題であるが、新年を迎え、少しでもよい方向に向かうよう期待したいものである。
 今回は江戸時代に年貢徴収にあたって、領主と村落との間でやりとりされた年貢徴収状である割付状や領収書に相当する年貢皆済状について見てみたい。
 江戸時代は兵農分離により原則的には武士は城下町、農民は農村へ住むこととなり、連絡等は回覧版に相当する廻状と呼ばれる文書でやりとりがなされた。年貢徴収についても多くの藩は年貢割付状・免札・免状と呼ばれる徴収文書を村あてに発給した。それを受け取った村方では、その村役人を中心に年貢額を村民に割り振り、そして、収穫後に年貢を郷蔵(ごうぐら)と呼ばれる村の年貢蔵に納入するのである。藩からは年貢を納入したということで年貢皆済状が村に対して発給された。こうした流れを踏むことで、年貢に関する一連の作業は終わる。
 ところで、桑名藩の場合、江戸時代前期には年貢受取の領収書に相当する年貢皆済状は発見されていなかった。しかし、最近の資料調査で桑名藩支配下の小原一色村(現いなべ市)の庄屋であった御子孫の家から一通見つかった。それは1672(寛文12)年の年貢皆済状で、前年の年貢皆済にあたって発給されたものであった。桑名藩の分限帳によれば、発給者は代官・手代など石高10石未満の下級役人であ
 年貢割付状では、1671年の年貢は122石余の村高に対して51石余が本年貢として課せられている。この本年貢のほかに京ケ野新田米・山手米・夫米が付加され、54石余が年貢徴収高の合計であった。この年貢高を村方で割付、収穫後に納入することになる。
 さて、実際に年貢はどのようにどれだけ納入されたのかを皆済状で確認してみよう。それによれば、割付状に書き記されていない麦・稗・大豆など、畑金(はたきん 畑年貢)が米納で加算され、米納分は61石余、そのほか夫馬代・渋代・草代・竹代などが金銀納され、さらに茶代として銭1貫86文、藁(わら)・すぐり藁・丸柿などは現物納された。そして、このことについて米払通手形、帳面を吟味し勘定したので、もし間違いがあるなら皆済状を持参するようにとしている。
 この2通の比較から桑名藩の年貢諸役に関する様子がわかる。割付状は、年貢の中心である本年貢と山手米など主要な小物成(こものなり)の記載がなされており、年貢の根幹部分を書き記したものであった。一方、皆済状は、割付状にはない麦・稗・大豆・畑金・夫馬代・草代・竹代・茶代・藁・すぐり藁・丸柿など本年貢以外の小物成・諸役も記され、年貢納入実態を表している。年貢納入期限も徴収状には毎年12月10日までとなっているが、皆済状によると、それは年貢の一部分であり、実質的には翌年の閏6月までかかっていたこともうかがえる。また、年貢納入に際しては、米納・金納・銀納・現物納など多様な形態があったことや割付状にはない様々な諸役があったこともわかる。
 このような年貢諸役については、1710(宝永7)年の領主交代に際して作成された「村指出し帳」よって確認されていたが、この皆済状の発見によって「指出し帳」の記載項目を裏付ける形となったことも大きな成果であった。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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