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久居藩 幻の都市計画−「太平の世」目前になぜ


「久居外構要害図」(久居市教育委員会保管)

「久居外構要害図」(久居市教育委員会保管)


 久居中学校体育館の西側に高通公園がある。初代藩主藤堂高通の名から採ったものである。そこは久居の城跡で、記念の石碑が建っている。でも、城といっても天守閣もなければ石垣も水を湛えた堀もない。明治初年までは陣屋といわれる平屋の御殿があったが、今面影をしのぶものはない。一世紀半近く経てば代々久居に住んでいる人でも「昔、あのあたりに城があった」程度にしか語り伝えられていないのが現状である。
 1669(寛文9)年、津藩第三代藩主に藤堂高久が就いたときに、弟の高通にも五万石の相続が認められ、久居藩が誕生した。高通は、さっそく藤堂源助や箕浦少内ら最高幹部に命じて新しい城や町づくりを進めた。普請作事奉行には萩森又兵衛を任命した。今なら、さしずめ新都建設局長といったところであろうか。
 写真は、市内の旧家に伝わった久居藩草創期の設計図と思われる。大きさは146×100cmで和紙2枚を継ぎ合わせ、堀や塀などにあたる部分には着色した紙が貼られている。作者の署名や制作年代の記載がないので、実物なのか模写なのかは不明である。絵図の裏書きには『久居外構要害図』とあるが、絵図を納めた袋には『久居開闢(かいびゃく)旧図』と記されている。筆跡は別人のようであり、当初からこの袋に入れられていたとは限らない。また、この絵図にまつわる経緯も伝わっていない。しかし、描かれている道筋は久居藩当初の街絵図に近く、『要害図』の内容は草創期の久居を示すものと見られてきた。
 ところで、この絵図には、たいへん驚かされることが描かれている。それは、「水堀」と「土居」が、御殿だけでなく武家屋敷全体をめぐる「総構(そうがまえ)」となっていることである。堀は正面にあたる東側で幅10間(約18m)、深さ3間、北側では幅5間、深さ2間と記されている。堀の内側には高さ2間、幅3間の土居が三方を囲む。特に東側では堀と土居が三角形に大きく張り出している。これを「屏風折りの横矢」といい、敵の側面攻撃に備えたものである。その前方に「櫓(やぐら)」がある。土居の上にも櫓が6ヶ所建つ。横矢の北に「大手門」があり、すぐ前には「馬出(うまだし)」といって城内へ敵の侵入を防ぐための備えがある。北側の「搦手(からめて)」(裏門)にも同じような馬出が見える。土居の内側は「侍屋敷」である。南側は自然の崖で一部を塀で囲っている。遠く雲出川を望むところに「御殿」が建つ。その西側は、現在埋め立てられて市営グラウンドになっているが、深い谷が入り込み、その谷の西にも「侍屋敷」が配置される。まさしく要塞である。
 1669年と言えば、江戸幕府が成立してから既に半世紀以上が過ぎ、戦陣を駆け回った武将達もすっかり代替わりして子や孫の世代となっている。1615(慶長20)年の大坂夏の陣以来大きな戦乱もなく、戦国の遺風も薄れ、「太平の世」と謳われた元禄時代も目前となったこの時期に、なぜこのような堅固な城塞都市を設計したのだろうか。幕府は大坂の役のあと間髪を入れずに一国一城令を出している。大名達の築城や増改築には幕府の厳しいチェックがあり、内密にことを進めようものなら改易(取り潰し)も覚悟しなければならなかった。
 結局、総構えの堀と土居は実現しなかった。幕府から許可が降りなかったのか、津の本藩が配慮して申請しなかったのか。あるいは、この絵図そのものが後世に別の目的で作成されたものか。このあたりの経過がわかる原史料の発見が待たれる。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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