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鳥羽城主も一服請う−「世に名高き茶人」杉木普斎


「茶人杉木普斎邸跡」の碑(伊勢市立厚生小学校内)

「茶人杉木普斎邸跡」の碑(伊勢市立厚生小学校内)


 伊勢山田の杉木普斎(すぎきふさい)は、千利休の孫千宗旦の高弟で、宗旦四天王の一人に数えられ、一流をなした茶人として、茶道界ではよく知られた人物である。
 一般的に「宗旦四天王」とは、普斎のほか、山田宗?・藤村庸軒・久須見疎安が挙げられ、その茶風は強烈な正統意識にあるとされている。そして、普斎流を特徴づけるのが、弟子等に与えた多くの茶道伝書、いわゆる「普斎伝書」である。現在、六十余巻を数える「普斎伝書」は、茶道研究にとって非常に貴重な資料となっている。
 普斎が千宗旦に弟子入りしたのは、15歳のころであった。そして、1658(万治元)年に宗旦が没した後は、千宗守・宗左に師事した。
 やがて普斎の、茶人としての名は、広く知られるようになる。1669(寛文9)年、当時の鳥羽城主内藤忠重が遷宮警護で伊勢山田を訪れた際、「世に名高き茶人」である普斎に、是非にと一服を所望している。
 普斎は、1628(寛永5)年、杉木光貞の子として生まれた。実名は「光敬(みつのり)」で、字を周禅(しゅうぜん)と言い、宗寿・宗喜・有麦庵(うばたあん)などと号した。彼が「普斎」を名乗ったのは50歳ごろからであったが、一般的にはその名で通用している。
 母は、杉木氏の本家筋にあたる宗大夫浄欣の娘美津女である。彼女は、一族の俳諧師杉木望一に師事し、遺吟も多く、京では「伊勢小町」とも称せられた、当時知られた俳人でもあった。普斎が茶道のみではなく、俳諧もよくしたのは、彼女の影響であったとされている。
 ところで、普斎の家は代々、「吉大夫」を称した外宮の御師でもあった。
 神宮の御師は、全国各地に師檀関係を結んでいたが、杉木吉大夫家は播州網干(兵庫県姫路市)を縄張りとしていた。この地に、普斎の門人が多いのは、彼自身が御師として、お祓いの頒布等で網干を頻繁に訪れていたことによるのであろう。特に、網干の灘屋佐々木家は有力な門人であった。
 ただ、近世の山田では、宮司家を頂点とする厳然とした家格があり、杉木吉大夫家は、師職の手代や諸職・商人のうち有姓のものを指す、「殿原(とのばら)」というかなり低い家格に属していた。普斎自身、あまり裕福ではなかったようで、内藤忠重が来訪した際、菓子を用意できず、急遽畳を売って小豆菓子を購入した逸話が残る。
 「殿原」とは本来、中世社会では侍身分を示す言葉で、特に村落内において、一般農民と区別される地侍層を指している。家格としての「殿原」も、これに由来するものであろう。
 杉木普斎は、1706(宝永3)年6月21日、79歳で没した。墓所は一之木の越坂であったが、やがて他所に移され、その所在は不明となった。今では、外宮の近く、月夜見宮に隣接する伊勢市立厚生小学校の敷地内に、「茶人杉木普斎邸跡」と記した碑が、ひっそりと建つのみである。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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