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四代将軍の命令以降絶える−桑名藩でも2件の殉死


桑名市立図書館所蔵「天明由緒」(殉死者樋口助右衛門の項)

桑名市立図書館所蔵「天明由緒」(殉死者樋口助右衛門の項)


 テレビドラマなどで、主君の死に対して殉死(じゅんし)する場面に遭遇することがある。殉死とは、「高貴な身分の人や主君などの死に際し、その従者や妻子らが死者に随従するために自殺、もしくは強制的に殺されること、追腹(おいばら)ともいう」と、『国史大辞典』に説明がある。さらに、殉死は古代からしばしば見られ、戦乱期には従者が戦死した主君に殉死するのは珍しくなかった。ただ、先行研究によれば、戦乱期には病死した主君に対してまで殉死した例はあまり例なく、江戸時代になると戦乱が絶えたためもあって病死した主君に対する殉死が一種の風習として流行し、賞賛されるようになったという。そうした殉死が流行した理由として、自己の命を惜しまない態度を示すのに最高の行動であり、そんな「かぶき者」的な心性(しんせい)から来ているという説もある。
 桑名藩でも、2件の殉死の事例があった。そのうち1件は松平定綱が1651(慶安4)年に死去した際で、樋口助右衛門・福本伊織が殉死した。そこで、2人の経歴を「分限帳」と「由緒書」から見てみよう。
 樋口助右衛門は、前年の分限帳では組頭を勤め500石を賜っている。大関五兵衛・小出弥五左衛門とともに二組の組頭を兼務していた。その配下には200石取りの給人を含め19人、もう一組も200石取り給人を含め25人がいた。由緒書では、幼少の頃、京都知恩院にいて、淀城主であった松平定綱が知恩院を参詣した折に初お目見えし、その後大垣城主時代の1626(寛永3)年に召し抱えられた。37年に300石を賜り、翌年から組頭となった。
 定綱死去に伴って殉死を願い、定綱の子定良が「殉死の義御差留(おさしとめ)」をなされたが、それを受けず、翌年正月9日に江戸の霊(れい)岸(がん)寺(じ)中長専院で殉死した。そして、子が助右衛門の跡目500石、舞台番を仰せ付けられた。
  一方、福本伊織は、久徳新助組に属し300石取りであった。由緒書では、定綱の小姓役に召し出され、懇意に召し使われ、定綱死去の際、殉死を願い出た。翌年正月17日松平家の菩提所である桑名照源寺まで主君の遺骨のお供をし、そのあと旦那寺である桑名城下の今一色正念寺へ赴き、改宗して殉死したとのことである。そののち、この福本家はいったん断絶し、1750(寛延3)年に定綱百回忌法要後、由緒ある家柄ということで新たに100石を宛行(あてが)われ、復活した。
 もう1件の殉死は、1657(明暦3)年の定綱の子定良の死去で、その際には多賀主(しゅ)馬(め)・堀田五郎右衛門・長瀬四郎左衛門の3人が殉死した。3人のうち、多賀主馬の詳細は不明であるが、堀田五郎右衛門は、由緒書によれば定綱時代に300石で召し抱えられ、使番・郡代・物頭を勤め、定良時代には参勤供番であった。その後、遁世(とんせい)を許され寺に入ったが、再度召し出され物頭役を仰せ付けられていた。
 長瀬四郎左衛門は、定綱に召し出されたあと浪人し、黒田家に仕えた。その後、定良の側衆に召し出され知行200石、用人役を勤めた。定良死去の際には「年来之御厚恩」を忘れないように、と殉死した。
 こうした殉死の理由は、主君との情愛や恩に報いるためであると思われるが、詳細はわからない。
 ただ、桑名藩の殉死も定良時代までで、次の定重時代には殉死者はなかった。それには四代将軍家綱が1663(寛文3)年の武家諸法度発布に際し、殉死を禁止する旨を伝えたことやその家綱の触れ以後に宇都宮藩で殉死した家臣があり、幕府は宇都宮藩を厳しく処罰したことが大きく影響したのである。そして、各大名領では殉死を禁止し、これらによって殉死の風習は絶え、桑名藩においてもその悪習はなくなったのである。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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