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医師に歯痛治療頼む−名張・藤堂長守の書状


写真 藤堂長守書状(部分)(県史編さんグループ所蔵)

写真 藤堂長守書状(部分)(県史編さんグループ所蔵)


 一括して家に伝わった古文書も、売買される過程で分割されることが多く、再び一つに戻ることは、まずほとんどないと言っていい。しかし、3年ほど以前に県史編さんグループで、全く別個の業者より購入した古文書群が、偶然にも本来一括の文書群であることがわかった。しかもその中に、名張藤堂家関係の文書が多く含まれていたのである。
 名張の藤堂家は、織田信長の武将として知られる丹羽長秀の子で、藤堂高虎の猶子となった高吉に始まった。高吉は、養父高虎に実子高次が生まれたため、家を継ぐことができず家臣となった。そして、代々「宮内」を称し、その屋敷の一部は今も名張市街に遺されており、往時をしのばせている。
 今回発見されたのは、三代当主藤堂宮内長守(1647〜97)の頃のものである。藤堂宮内家に伝来した文書は、現在は名張市教育委員会の所蔵となっているが、四代長源(ながもと)(1689〜1737)の時に大火があり、このため、それ以前の資料は非常に少ないとされている。
 文書の宛所は、いずれも「板橋清庵(せいあん)(安)」という人物である。彼自身の書状の写しなどから、実名は「正次」と言った。したがって、三重県史で収集した今回の文書群は、本来は「板橋家」に伝来したものということになる。では、板橋清庵正次とは、どのような人物なのであろうか。
 藤堂長守は書状の中で、「切々口中を痛気の毒に存じ候、御大儀ながらお越し候て下さるべく御頼り入り存じ候」とか、「御薬二色申し請けたく候」などと述べていることから、板橋清安は医師であったとみられる。1707(宝永4)年2月付けの板橋正次の遺言状によると、彼は「花内村」「北道穂村」で耕地を所有していたことが記されている。この地名は、いずれも現在の奈良県葛城市にあり、板橋正次が、この周辺に住居する医師であったことは、ほぼ間違いない。また、板橋正次が贈った鮎鮨(あゆずし)への礼状に「殿下」に披露した旨が記され、さらに鷹司(たかつかさ)家の家臣宛ての板橋正次書状写もあることから、摂関家とも親交のあったことがわかる。
 ところで、長守の書状は全7通を遺すが、先の文書のほかにも「虫歯にてもこれなく、歯肉痛み申し候」とあり、長守はひどい歯肉炎を患っていたようである。
 長守は、以前に使って具合がよかったとして、「しんしゃ」入りの薬の調合を依頼しているが、この「しんしゃ」とは、水銀鉱石である辰砂のことと考えられる。辰砂は、「朱砂」あるいは「丹砂」とも言い、古来、赤色の顔料として、また薬として重宝されてきた。
 このほか、長守の舎弟兵部長倫(ながひろ)(長宥、1665〜1723)も、「歯薬」の調合を依頼しており、同じく歯が悪かったようである。また、藤堂宮内家の家臣横田多右衛門吉房・有田彦兵衛の連署書状では、「右近儀、昨日より歯痛み申す」によって、遠路大儀ながら往診を願っている。その中で「宮内父子」とあることから、「右近」とは、長守の子息長源であることがわかる。このことから藤堂長守は、親子兄弟そろって、よほど歯が悪かったことものと考えられる。
 誰しも、歯の痛みは堪え難いものである。藤堂長守らも、奈良から名張まで、板橋清庵の到着を心待ちにしていたであろう。行政的な内容が多い武家文書の中で、新発見の文書は上級武家の生活の一端を物語ってくれる。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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