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「大坂の陣」の軍功が影響−大名家臣の相続形態


桑名家文書(跡目相続を認めた藤堂高次判物)

桑名家文書(跡目相続を認めた藤堂高次判物)


 NHKの大河ドラマ「新選組」が人気を博している。その中で百姓出身の近藤勇が自分の才能で武士身分を獲得していくが、武士階層からは所詮は百姓身分であるとあなど侮られる一コマがある。このことは、江戸時代が本人の人柄・才能・個性に関係なく家の由緒や格式が大きく影響した身分制社会であったことを意味しよう。
 ところで、江戸時代の大名と家臣は御恩・奉公の関係で結ばれ、大名は家臣に対して知行(ちぎょう)を与えるかわりに役負担としての軍役(ぐんやく)を課した。武士の知行は、本来、軍功や由緒により与えられるもので、それは相続という形で子々孫々継続されていった。相続には隠居等の理由によって生前に家禄を相続する家督相続と本人の死後に跡目を相続する跡目相続があったが、今、津藩を事例にして、武士の相続の様子を見てみよう。
 津藩士であった桑名又右衛門一重は、藤堂高虎に1601(慶長6)年に伊予国板嶋(いたじま・現宇和島市)で知行300石で召し抱えられた。1615(元和元)年の大坂の陣では桑名弥次兵衛組に所属し、長曽我部軍との戦いで敵の甲付きの首を三つ取り上げ、華々しい活躍を遂げた。そして、二代藩主高次の時代の1645(正保2)年6月28日に病死した。跡目300石は同年7月13日に倅(せがれ)又右衛門一吉へと相続され、又右衛門一吉は藤堂玄蕃組配属となった。ちなみに、この又右衛門一吉は、1634(寛永11)年の仇討ちの吟味で津藩に留め置かれた渡辺数馬や荒木又右衛門を病気の父又右衛門一重に代わって伏見まで送った人物の一人である。
 さて、この相続の際に藩主からの申渡状には「久敷者一入不便ニ候(ひさしきものひとしおふびんにそうろう)」とし、「跡目知行三百石」を相違なく子へ遣わすことを申し渡すとある。「久敷者」とは「家が長く続いている者」というような意味で、ここには相続にあたって由緒や格式を重んじる様子がうかがわれる。さらに、津藩の場合、その由緒や格式を確定する基準に大坂の陣の軍功が大きく影響していたようである。事実、各家の由緒書には大坂の陣での働きが詳細に記載されているし、1674(延宝2)年8月には藩士に対し、大坂の陣の戦功を含めた由緒書である「指出し(さしだし)」を提出させている。また、1679(延宝7)年にも先祖の大坂の陣における軍功書の差し出しを命じている。軍功書とは、1615年大坂夏の陣の八尾付近での合戦で、先祖がどのような立場の相手首をいくつ取り、どんな働きをしたのかなどを書き記したものである。
 津藩の場合、相続基準として本人の人柄よりも先祖の功績が重要視され、格式や由緒に基づいた相続をさせていたのである。また、跡目相続が圧倒的に多く、「書置(かきおき)」「覚書(おぼえがき)」「言上(ごんじょう)」といった遺言状に相当するものを提出させるなど、その子孫に家禄を相続させるシステムが確立されていた。このような武士の相続形態は、安定的な身分制社会にあっては、その社会を継続させる一翼を担っていたのである。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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