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津藩政史 欠補う重要史料−「永保記事略 附録」の発見


「永保記事略 附録」表紙と第1頁(『名張藤堂家資料目録』より)

「永保記事略 附録」表紙と第1頁(『名張藤堂家資料目録』より)


 津藩は、大名家の名前をとって藤堂藩と称したりする。その領国は、伊賀一国、伊勢国・大和国・山城国の一部、そして下総国(現千葉県)に飛地(とびち)があり、将軍からの拝領(はいりょう)高(だか)は32万3950石余にもなる。このような広い領域を治めるにあたって、伊勢国の津城に本拠を置き、伊賀国は上野城に城代家老を置き、名張には特別に藤堂宮内(くない)家を配した。
 上野城の城代家老には、一時期を除いて1640(寛永17)年から幕末まで藤堂采女(うねめ)家が任じられた。そのうち、1640年〜1743(寛保2)年まで約100年間の藩政に関する法令や覚書などを編年体に整理した文献がある。それは「永(えい)保(ほ)記事(きじ)略(りゃく)」という題名で、記事の始まる「寛永」期の「永」と終わる「寛保」期の「保」をとって名付けたという。これは、既に1974(昭和49)年に上野市古文献刊行会の手で『永保記事略 藤堂藩城代家老日誌』として活字翻刻され、広く一般に頒布している。そして、この発行された『永保記事略』の「解説」によれば、「永保記事略」の編さん時期は江戸時代後期の文化・文政期頃と推測されており、その構成は全9巻で、1巻から9巻まで同一人物によって書き記されたとある。そのため、「永保記事略」は全9巻であるということが定説となってしまったらしい。
 ところが、この「永保記事略」は全9巻ではなく、全10巻あった可能性がある。というのは、名張藤堂家歴史資料中の藤堂采女家文書に「永保記事略 附録 十」と題された資料が存在していたからである。その形態は写真のとおり竪(たて)帳で、18丁ほどの冊子である。後述するように釆女家が城代家老に就く以前の記事を取り上げ、当初から「附録」として編さんしたものであると思われるが、いずれにしても「永保記事略」の一部であることは間違いない。
 伊賀市上野図書館の古文献担当者の話によると、「永保記事略」は本来藤堂采女家文書として一括管理されていたが、現在は采女家文書から分離されているという。一方、名張藤堂家歴史資料中の采女家文書は1990(平成2)年、91年に市教育委員会が資料調査を行うまで、その存在が知られてなかった。伊賀市上野図書館所蔵の「永保記事略」と比較した場合、その書式、書き込み、筆跡などが類似しており、もともと同時期に編さんされたことは明らかである。それが何かの理由で、本巻は上野の図書館、「附録」は名張と別々に所蔵されるようになったのである。
 「附録」の内容は、藩祖藤堂高虎の伊賀・伊勢入封年の1608(慶長13)年8月から初代采女元則が城代家老に任じされる前の1640年8月までの記事である。津藩初期から前期の藩政を記した「公室(こうしつ)年譜(ねんぷ)略(りゃく)」や高虎の事績を集めた「高山(こうざん)公(こう)実録(じつろく)」などと記事の内容を比較すると、そのほとんどが記載され、内容的にも正確であるようである。
 しかし、部分的は異なる点もある。例えば、大坂夏の陣の凱旋(がいせん)ついては、「附録」には1615(慶長20)年閏(うるう)6月14日に「伊州江(え)向御凱旋也」とあるのに対し、「公室年譜略」では7月13日の条に「伊州へ向笠置越テ凱旋シ玉フ」とあって日付が違っている。また、1633年に巡見使派遣のために幕府へ差し出した伊賀国絵図については、「附録」には前年の記事に「伊賀国絵図出来(しゅったい)」とあるが、「公室年譜略」では前年には記載がない。さらに、1638年4月には「武具蔵建」と「附録」にはあるが、「公室年譜略」には見られない。
 このように、発見された「永保記事略 附録」は、初期の津藩政史の欠を補う重要な史料となりつつある。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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