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厚遇された半蔵の子孫−桑名藩古文書が伝える


桑名藩士の由緒をまとめた『天明由緒』(桑名市立図書館所蔵)

桑名藩士の由緒をまとめた『天明由緒』(桑名市立図書館所蔵)


 伊賀と言えば、「忍者」を思い浮かべる人も多いだろう。事実、伊賀上野城公園には移築された忍者屋敷があり、多くの観光客でにぎわっている。最近では、女忍者に扮した案内人が屋敷に隠された仕掛けの種明かしをして観光客を楽しませてくれる。
 その伊賀の忍者と関係の深い人物が服部半蔵である。江戸時代には、有事の際の守りとして江戸城の西門前に屋敷を構えていたことから、その門の名が「半蔵門」と称され、現在でも地下鉄の路線名などにその名が使用されている。
 服部半蔵正成(まさなり)が歴史上の舞台に登場するのは、天正10(1582)年に本能寺の変が起こったとき、徳川家康の伊賀越えに関わっていたことからであると言われる。江戸時代後期に編纂された『寛政重修諸家譜』にも「(天正)十年六月和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、伊賀は正成が本国たるにより、仰をうけたまわりて郷導したてまつる」とある。伊賀越えなどの功績により、その後、遠江国(現静岡県)で8000石を与えられ、家康の関東入部に従い、そのときに幕臣として与力騎、伊賀同心200人を支配することとなった。
 正成は慶長元(1596)年に死去し、そのあとは2人の子供が兄弟分与して継いだ。兄正就(まさなり)は5000石、与力7騎、伊賀同心200人を配下におさめたが、慶長9年に「勘気(かんき)」を被って家康の異父弟松平隠岐守定勝(さだかつ)に預けられた。弟正重(まさしげ)は3000石を分与され、半蔵の名跡を継いだ。正重も家康に仕えるが、のち佐渡金山に関する事件に巻き込まれ、村上周防守や堀丹後守へお預けとなった。
 その後、兄正就は元和元(1615)年大坂夏の陣で討ち死にするが、弟正重は堀家の家臣となったあと、一時「流浪」の時期を経て、実は桑名藩士として召し抱えられていたのである。
 桑名市立図書館には、桑名藩士の由緒書をまとめた『天明由緒』という文書綴が所蔵されており、それによって、服部半蔵家一族の桑名藩士としての処遇などがわかる。
 服部半蔵正重は、寛永年中(1624〜43)に家康の甥である桑名藩主松平定綱(さだつな)に召し出された。その格式は、年寄(家老級)の上位で、破格の待遇を受けた。禄高は正重2000石、嫡子正吉1000石とされ、親子で侍組(「分限帳」によると名の藩士)と足軽100人を預かった。
 また、服部半蔵正重の甥、すなわち兄正就の息子・服部源右衛門正辰(まさとき)も松平定綱の家臣となり、その血統から藩主一族として優遇され、服部半蔵家以上の処遇であった。
 なお、それ以後の服部半蔵家の子孫についても、幕末期まで桑名藩士として年寄など重要な職務を与えられ、引き続き厚遇された。しかし、ここからは忍者と関係した服部半蔵とはかけ離れた印象を受ける。それが、時代の流れであるのかもしれない。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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