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藤堂高虎像をさぐる−細川家と親しく交友


「津城公園にある藤堂高虎銅像」

「津城公園にある藤堂高虎銅像」


 三重県域を代表する大名に藤堂高虎がいる。『三重県史』資料編(近世1)の編さんでは、特に「藤堂高虎発給文書」という一章を設けて関係文書を集め収録掲載した。1993(平成5)年発行で、その後の資料調査でも新たな高虎関係文書もかなり出てきている。できれば「補遺編」として発刊したいとも考えている。
 津藩祖藤堂高虎は、戦国期から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、城郭普請巧者としても有名である。高虎の事績は、高虎の一代記である『高山公実録』、津藩初期史料である『公室年譜略』、津藩前期までの津藩法令等を収録した『宗国史』などから知ることができる。しかし、これらは後年の編さん物で、高虎に都合よく書かれていることもあり、当時の高虎を客観的に見る場合には、他家の資料にも目を通す必要がある。
 そこで、高虎が生存当時の書状類を収録している熊本藩「細川家史料」から、高虎の交友関係を垣間見てみよう。この史料には、藤堂高虎に関する記事が随所に見られる。それは、高虎と細川家との関係が親密であったからである。たとえば、細川忠興(ただおき)は息子忠利に「藤泉州(高虎)と細々参会しかるべき候」(1616〔元和2〕年4月6日付け書状)、「藤泉州へよろつ御談合もなされ候」(同年6月28日付け書状)と高虎との親交を深めるよう折に触れて指示している。さらに、1620年6月晦日付け書状では、忠興は高虎からの自筆書状に「大学(藤堂高次)と其方(細川忠利)等閑(なおざり)なく仕候」と書いてあったことについて、「泉州(高虎)われわれ(細川忠興)間能候(あいだ・よく・そうろう)」と自分と高虎の交友関係を例にして、高虎の息子高次との親交を諭している。このように、高虎と細川家とは親密な交友関係が続いていたのである。
 この背景には、高虎が外様大名でありながら家康との取次ぎ役的存在であったことが影響していたのかもしれない。
 また、一方、高虎の交友関係を見る中では、高虎と他の大名との確執も見られる。中でも、松山藩主加藤嘉明(よしあき)との確執は有名である。1597(慶長2)年朝鮮の役の手柄争いに端を発し、『公室年譜略』にも「当家ト加藤家ハ高麗以来確執アツテ」と、公然と記述するほどであった。
 また、「細川家史料」の1620年3月26日付けの書状には、「藤いつミ(高虎)と黒筑(黒田長政)間、むかしのことくあしき由申し越され候」とあり、藤堂高虎と福岡藩主黒田長政との間にも確執があった。それは後にも尾を引いたのか、細川忠興は翌々年5月1日付けの忠利への書状で、藤堂家と黒田家のことには関知しないように申し送っている。さらに、1629(寛永6)年6月、高虎の娘と黒田忠之との縁談が一度は整ったが、翌月には破談となった。このことについて、細川氏は「不思議成事候」と評しているが、とにかく、藤堂家と黒田家との関係は良好でなかったことがわかる。
 今回は、他大名との交友を中心に見てきたが、このほか、「細川家史料」には藤堂家の婚礼、藤堂家加増の祝儀、細川家の藤堂家への借金、高虎の晩年の記事なども見られる。こうした他家の史料から高虎関係の記事を見ることで、より立体的な高虎像が浮かび上がってくるような気がする。

(三重県史編さんグループ 藤谷 彰)

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