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伊賀と伊勢の区別、裏付け−高虎が出した21か条の法度


梶田家文書「慶長十三年十月八日法度」

梶田家文書「慶長十三年十月八日法度」


 本欄のbP07の記事では、藤堂藩伊賀国の知行制について書いた。今回は、藤堂高虎が伊賀・伊勢国入封直後の1608(慶長13)年10月に出した21か条の法度(はっと)について見てみよう。
 実は、この法度は「高山(こうざん)公(こう)実録(じつろく)」「公室(こうしつ)年譜(ねんぷ)略(りゃく)」「宗(そう)国史(こくし)」など藤堂高虎の事跡を書き記した史料に載せられている。また、近年の津藩を研究した書物にも取り上げられ、入封直後に出されたものとして研究者の間ではよく知られた法度である。
 その内容は、本年貢とは別の付加米のこと、年貢米の詰め方、納升のこと、秤(はかり)は百姓一人一人に量(はか)らせること、俵詰めの仕方、百姓人足の禁止、代官下代の食事、竹・木伐採禁止、糠(ぬか)・藁(わら)・薪(たきぎ)の使用、庄屋百姓むすめなどへの悪行禁止、代官所の百姓奉公人召し抱え禁止、十人組組織、年貢未納の場合の処置、鹿・猪・牛・犬を喰うことの禁止、鉄砲使用制限、年貢米納入前の他国への米出し禁止、借米・頼母子・勧進の禁止、鉄砲衆の編成替えの相談、鉄砲者の法度遵守、年貢や耕地などの聞き届け、代官への五人扶持支給に関することなどであり、入封にあたって在郷支配方針を家臣に示したものであった。そして、それは「慶長十三年十月二日伊州名張郡支配ノ梅原勝右衛門武政・和田真斎入道へ渡シ玉フ制度ノ書付」(「高山公実録」)とあり、伊賀国名張郡に地域限定した法度と考えられてきた。
また、1770年代に編さんされた「公室年譜略」には法度に続けて「上野・洞津ニモ是ニ準シ制度アルキヘキナレトモ其(その)本書ヲ見サルニ依テ爰(ここ)ニ漏(もら)シヌ」と見られ、名張以外にも「アルへキ」とされたものの、実際には上野や伊勢国での法度は発見されていなかったというのである。
 ところが、最近、梶田久左衛門という津藩士の御子孫のお宅に史料調査で訪ねた折、この法度によく似た法度を発見し、非常に驚いた。その史料は、先に掲げた史料と文言内容がほとんど一致し、高虎の印が押されている。ただ、条目の順序が違っており、発給日が今までの史料では1608年10月2日であるのに対し、同年10月8日である。そして、宛先が異なっていた。
 この法度の日付の相違について、既に研究者の一人は、近年出された著書の中で、「八と二はしばしば混同して書かれるので『宗国史』などは書写の間に混同して書記されたものかと考える」としている。確かに、このような考え方もできようが、書き間違いではなく当初から「八日」と書いたものと考えられる。
 それは、「高山公実録」の著者が考証した部分に「慶長十三年十月八日友田八郎右衛門・中川小四郎両人へ賜ハりし御制度あり、……少しか条の前後ハあれと同しきか故に略しぬ」とあり、手がかりになる。ここに出てくる中川小四郎は当時伊勢付けであった可能性の高い家臣であり、伊勢付けの家臣には10月8日に「少しか条の前後ある法度」が出されていたようである。
今回拝見した史料の宛先となっている梶田久左衛門も、伊勢国小森村(現津市)で300石を給与されていて、伊勢付けの家臣で、やはり法度の条目の順序が前述したように異なっており、そのことが裏付けられた。
さらに、津藩の家臣への知行の給与方法でも、伊賀国は1609年8月28日、伊勢国は同年9月13日と、宛(あて)行(がい)の月日をずらしている。このように、伊賀国と伊勢国とでは区別している例もあり、この法度は10月2日には伊賀国名張郡、10月8日には伊勢国に対し出されたものであったと考えられるのである。
 それにしても、法度の中に「犬を喰うことの禁止」があるのは、当時かなり犬を食する風習があったわけで、蛇足ながら、来年「戌年」を迎える年末のトリビアとして最後に紹介しておく。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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