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文献裏付ける製塩遺跡−地名に名残とどめて


松阪市小狐遺跡の「かん水槽群」実測図(『三重県埋蔵文化財センター 研究紀要』第9号)

松阪市小狐遺跡の「かん水槽群」実測図(『三重県埋蔵文化財センター 研究紀要』第9号)


 人が生きていく上で無くてはならない塩は、今も昔も海水から生産されている。
 伊勢湾と熊野灘に面した長い海岸線をもつ三重県では、古来、製塩が盛んであった。平城京出土の木簡には「答志郡答志郷塩三斗」とあり、奈良時代、志摩国より塩が納められていたことがわかる。
 県下の奈良・平安時代を中心とした遺跡からは、直径20センチ弱に復元できる盥(たらい)形の土器が出土する。これは「志摩式製塩土器」と呼ばれ、堅塩作りのための型と考えられている。恐らくそのままの形で運ばれ、使用に際して割られたのであろう。伊勢神宮では、今も神事に用いる御塩を焼いているが、堅塩の型は三角錐形の土器を使っている。
 中世になると、本県域沿岸の製塩技術は飛躍的な発達を見せる。
 製塩に際してはまず、高濃度の塩水、「かん水」を作ることから始まる。次に「煎熬(せんごう)」と言って、大きな塩釜で煮詰めて荒塩にする。そして、堅塩を作る場合は、型に入れてさらに焼き固めるのである。
 かん水は、海水を染み込ませた砂に、海水をかけることを繰り返して得られるが、人力で海水を汲み揚げ、砂に掛ける方法を揚浜(あげはま)式と言う。それに対して、水路を造り、潮の干満を利用するのが入浜(いりはま)式で、伊勢国では、早くからこの方法が採られていたとされている。なお、採かん場所を「塩田」とか「塩浜」と言うが、小字などの地名として、その名残を留めているところも少なくない。
 ところで、現在の伊勢市大湊の年寄家であった太田家に伝来した古文書群は、中世の塩田・塩浜の売買に関する史料が多く残されていることで知られている。これらを分析すると、塩浜等は個人所有であったが、塩釜や塩屋は共同で使用していたことが明らかとなる。また、この文書中には、塩浜に付随して、「土舟」と言う施設のあったことも確認できる。これは、かん水を溜めておく、いわゆる「かん水槽」を指すものと考えられる。
 1992(平成4)年に発掘調査された、松阪市西黒部に位置する池ノ上・小狐遺跡では、粘土を張った径2メートル程の穴が整然と並んで、多数検出されている。この地域は、16世紀の段階で製塩が行われていたことが史料的に確認され、検出された粘土張りの土坑こそ、太田家文書に見える「土舟」、すなわちかん水槽であると考えられるのである。また、池ノ上遺跡では、このかん水槽群に囲まれた煎熬のための施設である塩屋跡も確認されている。
 製塩関係の遺跡は、その性格上海浜部に位置するため、開発や浸食などで破壊され、確認されるのは希である。そうした中で、中世に遡る製塩遺跡が良好に確認された意義は大きいと言える。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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