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伊勢の妻入町屋の町並−伊勢参宮背景に成立か


伊勢市河崎町の妻入町屋(1980年頃)

伊勢市河崎町の妻入町屋(1980年頃)


 三重県内には、今も歴史に根ざした地域固有の景観が多く残されている。その中の一つに、伊勢を中心とした妻入(つまいり)町屋の連なる町並みがあげられる。
 一般に、建物は棟に対してどう入るかによって、平入(ひらいり)と妻入に大別される。妻入とは、切妻屋根両端の三角形になった壁面側、すなわち棟に対して垂直な壁面に入り口が設けられた建物である。こうした妻入民家は、伊勢市内を中心に、北は雲出川南岸の六軒(松阪市)や市場庄(三雲町)、南は磯部町などの志摩半島一円に分布している。しかし、この圏内に含まれる松阪や鳥羽の町屋は平入、屋根棟と平行した面に入り口のある建物が優勢を占めている。
 伊勢市に妻入町屋が多いことの理由として、伊勢神宮の建物が平入であるため、一般の民家が神宮と同じでは恐れ多いと遠慮したためとよく言われる。しかし、この理由には史料的な裏付けがなく、建築史の専門家も妻入民家の分布状況などから見て、この説には否定的である。
 ところで、町屋とは「町にある商家」という意味で、民家の一つではあるが、その成立は農山漁村の民家よりも後である。また、その成立過程は地域によって大きく異なり、都市住民の出自にも関わっているという。
 近年、発行した『三重県史』別編「建築」の中には、伊勢の妻入町屋成立に関して、一つの興味深い考えが示されている。
 それは、伊勢の山田を中世の町場が近世以降も継承された一例ととらえていることである。つまり、室町時代末から始まる伊勢参宮の拡大を背景に、自然発生的に成立した集落が次第に連旦・複合化し、急激な都市化の過程をたどったというのである。山田の町屋は、当時のこの地域にあった農家の妻入建物を祖型として、商業機能や町の高密化に徐々に対応していったものと考えられる。
 もともと、妻入町屋は、梁(はり)間の規模や平面の間取りに制限がある。また、敷地の側面には雨水処理の溝や裏への行き来のための通路が必要になるなど、どうしても建物と建物の間に隙間ができてしまう。多くの建物を連ねていくには妻入町屋では限界がある。いわば、都市の建物には不向きなのである。しかし、山田周辺では依然として妻入町屋が継続して建てられ、妻入町屋を前提とする隣同士の関係も、慣習化し定着していった。
 これに対して、近隣の松阪や鳥羽では、16世紀末から17世紀初頭にかけて町並が整えられていった。これは、県域内で都市化が進行する時期に当たり、切妻造平入で屋根を板葺とし、平面も片側に通り土間をもつ一般的な町屋であった。この形式は、隣家と屋根を建ち連ねた密度の高い町並を造ることが可能で、京都など当時の代表的な都市で用いられている。まさに計画的に建設された都市にふさわしい先進性を備えるものであった。
 このように、三重県内の民家建築は、寺社など他の分野の建築に比べると、より濃厚な地域性を有している。古い建築物は、常に建替えや滅失の危機にさらされているが、身の回りにある建物や景観を今一度ながめ、その地域性を考えてみてはいかがであろうか。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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