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戦国時代の天変地異−「皇代記」に生々しく残る記述


内宮方面図面(『神苑会史料』より)

内宮方面図面(『神苑会史料』より)


 歴代の天皇ごとに編纂された『皇代記』と呼ばれる歴史書の一つに、伊勢神宮の神官によって、神宮の主要事項を書き入れた異本がある。その中に、本県域を襲った天変地異の記述が、生々しく書き残されている。今年は、洪水や地震が相次いだこともあり、『皇代記』から明応年間(1492〜1500)の災害に関する記事を紹介したい。  1495(明応4)年の8月8日、伊勢で「大風洪水」が発生した。現代と違い、護岸工事や川の浚渫などがなかった当時は、少しの雨でも洪水が頻繁に発生していたが、このときの洪水は規模が違っていた。  旧暦の8月8日は現在の9月半ば頃に当たり、「大風」とあることから、台風による被害であったと考えられる。この洪水で神宮では、内宮の宇治橋と、別宮である風宮の橋が流失する被害が出ている。  ちなみに、この後、風宮の橋は勧進により架け直されたが、その時鋳造された擬宝珠は、今も風宮の橋に掲げられている。  記録によると、この洪水で、「館」と「岡田」の間の家屋50余軒が流失し、約50名の死者が出ている。「館」は現在の宇治館町、「岡田」は五十鈴川を挟んだ対岸の中之切町から浦田町一帯に当たる。そして、濁流は中村郷にも及んでいる。  中村には、当時内宮五祢宜であった荒木田守晨(もりとき)と七祢宜であった荒木田守武(もりたけ)兄弟の居宅があったようで、二人は家もろとも押し流され、楠部の下流でようやく助かったのである。距離にして、2qほど流されたことになるが、幸いにして2人とも無事であった。なお、荒木田守武は、この時22歳。のち、連歌俳諧の興隆に大きな足跡を残すことはよく知られている。  この洪水被害の3年後、今度は大きな地震が県域を襲った。当時港町として栄えていた安濃津に壊滅的な被害を与えた、いわゆる「明応地震」である。  地震は2度発生した。最初は1498(明応7)年6月11日未剋(午後2時)で、次いで8月25日辰剋(午前8時)。特に2度目の地震は規模も大きく、津波が発生し、甚大な被害を与えた。『皇代記』によると、大湊では津波が八幡の松を船もろともに越えるほどであったとし、数千軒の家屋が流され、死者は5千余人。志摩国荒島(現鳥羽市)でも250人余りの犠牲者を出している。そして、その時の津波の様子を、次のようにも記している。  地震による「高潮」の第一波が来た後、潮が沖まで引き、干上がったところに魚が多く跳ねていた。人々は不思議がり、魚を拾おうと浜に向かった。そこに「山の如き高潮」が襲ったのである。このことが被害をさらに大きくした。まるで海中から、数万の軍勢が押し寄せたようだったとしている。そして、およそ大地震の時は大波が2度あり、後の波が高潮となるとして、次のように締めくくっている。  「後代の人、地震の時の用心のため、懇ろに注し置くものなり」  南海、東南海地震が近く発生する危険があると指摘されて久しい。先人の忠告として肝に銘じたい。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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