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北畠氏揺るがす兄弟合戦−分家・木造氏との対立絡み


石碑が立つ木造城址(写真:毎日新聞社)

石碑が立つ木造城址(写真:毎日新聞社)


 室町時代から戦国時代、伊勢国司として名を馳せた北畠氏に、その存在を揺るがしかねない大きな内乱のあったことは、意外に知られていない。
 明応6年(1497)9月、当代国司北畠具方は、大軍をもって一族衆の1人、木造政宗の居城木造城(現久居市)を攻撃した。早朝より始まった戦闘は具方軍優勢で推移し、落城も目前となったとき、突如として安濃郡の在地領主長野政藤が木造城の後詰として参戦。具方軍は数百人もの被害を受けるとともに、叔父の大河内親文や一族の岩内政治までもを失うという大敗を喫してしまうのである。
 この内乱の発端は、明応4年10月、大宮勝直・高柳方幸ら11名の重臣が連署し、同じく北畠氏の被官であった佐々木秀盛・稲生光遠とその一族の生害や追放などを要求したことに始まる。そして、具方が大宮・高柳らの扶持を召しあげ追放したことから、彼らの不満は一気に爆発し、具方の舎弟師茂を擁立するという行動へと発展したのである。
 師茂は具方より十歳ほど年下の異母弟で、後に興福寺の別当となった東門院孝縁の同母兄に当たる。また、師茂は木造政宗の娘を娶っていたことから、師茂擁立に舅の木造政宗が同調したことも、内乱を大きくする結果となった。このように、発端は被官同士の対立ではあったが、そこには、分家として極めて独立性の強かった木造家と国司家との反目のあったことは確かである。さらには、内乱の当初で父北畠逸方(政勝)が、むしろ師茂寄りの行動をとっていることから、逸方と具方の確執なども複雑に絡んでいたと考えられる。
 合戦では大敗した具方であったが、その後、逸方の調停で木造城を出た師茂が、北畠氏の本拠地一志郡多気(現美杉村)で切腹し、内乱は一応の収束を見ることになる。しかし、木造氏との対立はその後もしばらく続き、文亀3年(1503)に、政宗の出家と木造城の接収によって、ようやく終結した。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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