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したたかに生きた戦国武将−簡素な構図 北畠政勝像


北畠政勝寿像(浄眼寺所蔵)

北畠政勝寿像(浄眼寺所蔵)


 松阪市の浄眼寺(じょうげんじ)に、一幅の人物画が伝来している。絹地に描かれた構図は簡素で、顎髭を蓄えた僧形の男性が、右手に数珠、左手には教典らしき巻物を持って、振り仰ぐように赤い日輪を見つめたものである。
 この人物画には、浄眼寺開山の大空玄虎(だいくうげんこ)自筆の賛が書されている。その表題には「当寺開基無外逸方(むがいいっぽう)大禅定門之寿像」とあり、この人物が、伊勢国司北畠政勝(まさかつ)の「寿像」、すなわち彼の、生前の姿を映したものであることがわかる。戦国武将の寿像の類例はあまり知られておらず、本県では、恐らく唯一のものである。では、北畠政勝とは、どのような人物であったのだろうか。
 伊勢国司北畠教具の子として生まれた政勝は、初め「政具(まさとも)」と称し、後に「政郷(まささと)」と改名。応仁文明の乱もたけなわの文明3年(1471)、教具の死によって家督を継承し、あわせて幕府より伊勢一国の守護職に任じられた。
 早速彼は、伊勢国守護職を足掛かりにして、それまで勢力の及ばなかった北伊勢への進出を図る。しかし、それに危機感を抱いた安濃郡の在地領主長野氏は、激しく抵抗した。
 「政勝」と改名したのは、文明11年11月、長野氏との合戦に敗れたことが原因と見られる。この敗北は、政勝本人も「当家安否之境」と自覚させるほどの大敗で、自領に退くこともできず、与力神戸貞盛の居城神戸城に籠城している。
 文明18年7月、政勝は嫡男具方(ともかた)を北畠家督とし、自身は出家して「無外逸方」と号した。彼が、40歳前後という働き盛りの若さで落飾してしまった原因は、今となってはわからない。ただ、浄眼寺の開基をはじめ、文明13年には阿弥陀三尊を造り、当時の高僧了庵桂悟(りょうあんけいご)を招いて開眼供養するなど、仏教への関心が強かったことは事実である。
 一面、政勝は当時の中央の公家らからは敬遠されていたようである。このことは、彼の父教具が従二位権大納言、子息の具方も正三位権大納言にまで昇っているのに対し、自身は従四位上右近衛権中将止まりであったことからもうかがえる。事実、公家の日記の中には、中将になれたのも何かの間違によるものだ、とまで書かれたものもある。
 賛にある「明応甲寅(きのえさる)」の年号は、同3年、西暦1494年に当たる。北畠政勝の生年については不確定であるが、没したのは永正5年(1508)12月4日で、一説ではこの時、60歳とも、62歳であったとも言われている。そうすると、この画像は政勝が46か48歳頃のものということになる。この3年後、政勝は、北畠氏にとって未曾有の内乱に直面するが、この事件については以前(「発見!三重の歴史(5)」)に紹介した。
 この画像は、賛が政勝の自賛であることから、本人を直接前にして描かれた可能性が高い。戦乱の時代をしたたかに生きた戦国武将の面影を今に伝える貴重な資料でもある。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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