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解析された像内文書−万寿寺の地蔵菩薩坐像


万寿寺木造地蔵菩薩坐像と像内納入文書『三重県史研究』第15号より

万寿寺木造地蔵菩薩坐像と像内納入文書『三重県史研究』第15号より


 伊賀市万寿寺の本尊地蔵菩薩坐像は、像内に記された銘文により作者と制作年が、また、頭部に納められた納入品から造像時の状況が判明する。重要文化財に指定されており、まさに南北朝期の三重県仏像を代表する作例と言える。
 左手に宝珠を捧げ持ち、右手は錫杖を執る。右足を前にして安座する一般的な姿の地蔵菩薩像である。しっかりと腰をおろして坐る姿は強い存在感が感じられ、張りのある面部やねばりある衣文(えもん)等、作者の実力がうかがえる。
 銘文は、像内に三行にわたって墨書されており、それによると、1364(貞治3)年に仏師寛慶によって作られ、彼の「子息忍慶」が「助作」したことがわかる。
 作者の寛慶は、鎌倉末期に活躍した奈良仏師で、本像のほか、1340(暦応3)年に興福寺の厨子入吉祥天倚像(いぞう)を作り、1355(文和4)年に法隆寺上堂の持国天・増長天を制作している。
 また、助手としてこの造像に参加した息子の忍慶は、後の1411(応永18)年に興福寺東金堂の釈迦如来像などを作った忍慶と同一人と考えられている。
 像内納入品は、頭部の中を刳りぬいて納められており、『三重県国宝調査書』に目録が紹介されている。主要なものとしては、多数の摺仏(文殊騎獅子像・地蔵菩薩立像)のほか、舎利、両界種字曼荼羅、古写経断片、袈裟雛形等があげられる。その中に10枚の文書があり、現在は一巻にまとめられている。この文書は、これまでにもその史料としての重要性が指摘されており、一部が判読できるものの、墨書が二重三重に重なって書かれていることから、その解読は困難なものであった。
 1997(平成9)年、東京大学史料編纂所により文書の画像解析が試みられた。詳細は『三重県史研究』第15号に報告されているが、「影写」と呼ばれる従来からの古文書複写技術に加えて、文書の裏側から光を当てて写真撮影を行い、それをデジタル化してコンピューター画面上で操作する方法も用いられた。その結果、9件の内容を伴う文書が確認された。
 文書は、「僧定宗」の売券(ばいけん)と「やなき」という女性の書状が中心で、定宗筆の文書裏に「了賢房」という人物が願文を記している。これは、文書を地蔵菩薩像内に納める際のものと判断され、願文中に「二親」とあることから、納入者の了賢房が、父定宗と母やなきの菩提を弔う目的で、手元にあった父母の自筆文書に自らの願文を書き加えて地蔵菩薩像の胎内に納入したと考えられるのである。
 万寿寺は現在曹洞宗であるが、もと長福寺と称する西大寺末の寺院で、この地の領主福地氏の祈願所であったという。胎内文書の中にも「長福寺」や「ふくちの御てら」といった文字が確認され、了賢、定宗、やなきも福地氏に関係のある人物と見られる。中でも、了賢の母親と思われるやなきは、「つち」と呼ばれるところに住んでおり、息子了賢にたびたび書状を送っている。彼女は、かな書状を書ける能力を有した文化的にも高い素養を持った人物と言えるが、夫定宗に先立たれたらしく、「かめいし」という召使いらしき者はいたものの、晩年は孤独であったようである。 加えて、書状で着物等を無心していることから見て、経済的にも困っていた様子がうかがわれる。
 ただ、福地氏と奈良仏師寛慶らのつながりについてはよくわからず、文書の内容についても、今後更に検討が必要である。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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