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交易事業で莫大な財−中世の鳥羽 阿久志道妙とその一族


写真 現在の鳥羽市安楽島周辺

写真 現在の鳥羽市安楽島周辺


 鎌倉時代も末期の1322(元亨2)年8月16日、悪止(あくし)住人の僧弁盛により、一通の「紛失記」が作成された。「悪止」は、「悪志」「阿久志」とも書き、現在の鳥羽市安楽島(あらしま)町域に比定される。
 紛失記とは、災害や火事などで失われた重要書類を書き上げ、それを当該地域の行政的責任者が、紛失の事実を確認、保証したものである。弁盛の場合、彼と彼の舎兄道妙の屋敷に押し入った強盗被害によるもので、当地に所在した荘園「荒島荘」の荘官ら六名が連署している。
 さて、このとき強奪され紛失した書類は18通。そのうちの3通は屋敷や耕地の売買証文であるが、残りはすべて借用証文で占められている。つまり弁盛は、この地で、いわゆる高利貸しを営んでいたのである。そこに強盗は目を付けたのであろう。犯人は、同じ荒島の住人である右衛門三郎等であった。
 紛失記の詞書(ことばが)きによると、弁盛はこの紛失記を、負債人への取り立てのためと同時に、盗まれた証文が悪用されないようにするためとしており、当時の危機管理意識の一端があらわれていて興味深い。
 証文に記された借銭の額は、泊(とば)浦(うら)江向(現鳥羽市1丁目近辺)住人麻生浦六郎兵衛尉の100貫文を最高額に、合計175貫600文にのぼる。1貫文は、銭約1000枚で、高額の場合は、銭を紐で束ねた「銭緡(ぜにさし)」の状態で流通していた。当時の銭を現在の貨幣価値に換算するには無理があるが、田1反がおよそ4〜5貫文で売買されていたことから考えても、かなりの高額であったことがわかるであろう。
 債務者の中に犯人の名は見当たらないが、紛失記の保証で連署した一人、荒島荘田所の千松衛門尉景盛の名が見えている。彼は弁盛より20貫文を借銭していたようで、紛失記に花押を据えるその胸中は、きっと複雑ではなかったかと想像される。
 ところで、弁盛の舎兄道妙は、弟の一人定顕を駿河国江尻(現静岡県清水市)に配して中継点とし、関東と大々的な取引を行う廻船業者であった。地元に円応寺という寺院を私財で建立するなどその財力は大きく、彼が最後に仕立てた廻船4隻の利益は、実に1000余貫文にものぼっていた。恐らく、弁盛の高利貸しとしての資本も、兄道妙の財力に依るところが大きかったのではないだろうか。また、廻船4隻の船頭のうち、一人は道妙の娘婿であり、もう一人も道妙の舎弟豊後房の婿であるなど、長兄の道妙を中心に、彼等が一族をあげて活発に活動していたことがうかがえる。
 このように、莫大な財産を蓄積していたと見られる道妙であるが、晩年は決して幸福ではなかったようである。円応寺で僧となっていた一人息子の慈育を1334(建武元)年に亡くし、彼自身も、財産を分与処分しないまま、同3年3月9日に急死している。このため、廻船の利益1000余貫文を巡り、未亡人の法宗と、道妙の舎弟定顕・豊後房が激しく争っている。
 この財産争いの結末は、資料がなく不明である。しかし、道妙夫婦が晩年頼った伊勢国の光明寺と荒島の円応寺が、寺領等を巡って相論しており、その後も諍(いさか)いが、形を変えて継続されていたものと考えられる。いずれにしろ、道妙が築き上げた交易事業は、彼の死とともに崩壊していったのであろう。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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