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海外で発見、御本尊の手−東大寺の「伊賀別所」新大仏寺


新大仏寺本尊如来坐像

新大仏寺本尊如来坐像


 1180(治承4)年12月28日、平重衡(たいらのしげひら)の軍勢は南都を焼討ちし、東大寺や興福寺は炎上した。その結果、多くの建物や仏像が失われることとなった。
 翌年には早くも復興の動きが見られる。そうした中で、東大寺創建時の広く民衆に寄進を求めた精神をふまえ、大勧進上人として起用された人物が俊乗房重源である。時に61歳であった。
 重源は、東大寺復興造営のために各地に「別所」と呼ばれる出先機関を設置している。「伊賀別所」もその一つで、現在の阿山郡大山田村にある新大仏寺がそれに当たる。
 伊賀別所の創建は、他の別所に比べてやや遅く、復興事業が一段落する1201〜1204年(建仁年間)頃と考えられている。
 各別所の本尊は、いずれも阿弥陀如来像で、伊賀別所の場合は、記録によると像高約5mの阿弥陀如来立像で、脇侍の観音、勢至菩薩立像も同様の大きさであったという。作者は、鎌倉時代を代表する仏師の一人、快慶である。
 このような由緒を持つ伊賀別所ではあるが、やがて復興が終わり、重源も86歳の長命で示寂すると、いつの頃からか衰退していったようである。詳しいことはわからないが、戦国時代の末頃にはかなり荒廃した状況であったことがうかがわれる。
 1689(貞享5)年に当地を訪れた松尾芭蕉は、その荒れ果てた様子を『笈の小文』や『伊賀新大仏之記』に記している。中でも、本尊の阿弥陀三尊立像は、倒壊してしまい、中尊の頭部のみが現在上人堂と呼ばれる建物に安置されていた。その他の破損部材は別に保管されていたが、露天のため次第に朽損していったらしい。
 「丈六に陽炎高し石の上」の句を芭蕉が詠んでから30年ほど後、新大仏寺東之坊の住持であった陶瑩(とうえい)の奔走により、ようやく修復勧進の本格的な活動が始まった。
 まず本尊の修造は、当初の頭部のみを用いて首から下の胴体部分を新しく造っているが、このときに立像であったものを坐像に直したのである。頭部はほとんど改変の手が入っておらず、言わば文化財修理のお手本のような見事なものである。しかし、残念ながら、当初像の体部をはじめ両脇侍像も失われてしまった。
 ところが最近、アメリカ・ハーバード大学内のサックラー美術館に保管されている仏像の手が、新大仏寺の本尊である可能性が指摘され、注目を集めている。この手は最大長約67cm、最大幅約31cmの大きさで、作風からして明らかに鎌倉時代のものである。そして、手首のはぎ面や当時の造像状況から検討した結果、新大仏寺の本尊である可能性は非常に高いというのである。
 また、国内にある個人所蔵の菩薩像右耳も、以前から新大仏寺脇侍像の一部である可能性が指摘されている。この耳は、近年四日市市立博物館が開催した展覧会に出品されている。会場で実見し、その大きさに驚かれた方もいることと思う。
 このように残欠とはいえ、頭部以外の部分が新大仏寺旧本尊のものである可能性が紹介されたことは大変興味深いことである。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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