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陰陽道や修験道の「呪符」も−墨書土器 解釈さまざま


「盈」と墨書きされた土師器皿(「県埋蔵文化財報告」94―1より

「盈」と墨書きされた土師器皿(「県埋蔵文化財報告」94―1より


 墨書土器というのは、書いて字のとおり、遺跡から出土する遺物のうち、墨書された土器のことを指している。書かれているのは、文字や記号がほとんどであるが、まれに絵や花押なども見受けられる。その意味するところは多様であり、さまざまな解釈が可能である。その一端を紹介してみよう。
 古代の墨書土器の場合、「平安」「富」「福」といった、いわゆる吉祥文字が目につく。多気郡明和町に位置する斎宮跡からは、「水司」や「目代」など、使用役所や個人を特定するような墨書例も確認されている。中世の墨書土器の中にも、事例としては少ないが、個人名と考えられるものもある。しかし、最も多いのは、おそらく呪いや何らかの儀式などに際し、お供えなどを盛るために使用されたものであると考えられる。
 このことは、吉祥文字の多さがよく示しているが、津市大里窪田町大垣内遺跡の、平安時代の井戸跡から出土した土師器皿には、刻書(墨ではなく、ヘラなどで削って書いたもの)で「饗」と書かれており、神への供物を思わせる。多気郡多気町上ノ垣外遺跡から出土した「盈」(みちる)と書かれた平安時代初めの土師器皿も同様の意味を持つ。また、平安時代末から鎌倉時代にかけてよく見られる「上」と墨書された器も、供物を「たてまつる」ことを意味すると見てよいであろう。実際、安芸郡芸濃町大石遺跡からは、個人名とセットになった「国枝上」(国枝たてまつる)と書かれた陶器碗も発見されている。
 次に、刻書ではあるが、松阪市射和町鴻ノ木遺跡や同市朝田町堀町遺跡からは、星形や格子模様の入った平安時代の土器が出土している。星形は木・火・土・金・水の「五行」を、格子は臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前の「九字」を示し、陰陽道や修験道に直結する記号、いわゆる「呪符」と見て間違いない。これらの「呪符」は、現在でも志摩地域の海女道具などに見られるものである。さらに、松阪市阿形町の遺跡からも、「乾」「坤」「艮」と書かれ室町時代の土師器の小皿が出土しており、同じく陰陽道に関わるものと判断される。
 このほか、より実用的と考えられる墨書例もある。度会郡玉城町蚊山遺跡から出土した鎌倉時代の陶器碗には、「よね」と墨書されていた。個人名とも解釈されるが、当時の女性名として「よね」はあり得ないことから「米」のことと見て、耐久性と規格性の高い陶器碗が、計量のための升の代用にされた可能性が指摘されている。
 同様のことは、花押の据えられた陶器碗にも言えることである。おそらく、鎌倉時代の領主や地主が、自分の花押を据えた陶器碗で、年貢の穀物等を計量させたのではないだろうか。
 ちなみに、当時の領主らは、特に年貢納入の完了をもって、地域の顔役らを集めて饗宴を開くことがあった。先に挙げた大石遺跡では、鎌倉時代の領主層の屋敷跡と考えられる遺構から、「侍器」あるいは「僧器」と書かれた碗が複数出土しており、器の使用が社会的立場により区別されていた可能性があり、その関連が注目される。
 ただ、このように墨書の意味やその器の用途をある程度特定できる例はさほど多くない。墨書土器の大部分を占める「○」や「×」などの単純な記号は、何を意味するのか。今後の課題である。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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