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古代史研究の道標に−「続日本後紀」を編纂した春澄善縄


藤原町長尾の旧春澄社跡地に建立された記念碑「従三位春澄善縄卿宅址碑

藤原町長尾の旧春澄社跡地に建立された記念碑「従三位春澄善縄卿宅址碑


 平安時代初期、菅原道真の父是善ら、時の大学者と文章道(もんじょうどう)を通じて交流し、「在朝の通儒」(万事に通じた学者)と賞された学者がいた。伊勢国員弁郡出身の春澄善縄(はるずみのよしただ)である。
 春澄善縄は、もと猪名部(いなべ)氏を名乗り、員弁郡を本拠地とする地方豪族の出身であった。彼が幼少より学問を好んだため、祖父は、その教育には惜しむことなく財産を費やしたという。その甲斐あって、善縄は文章道においてその博識には当時のどの学者も及ばないまでに大成した。官途についてからも、学問への情熱は衰えを知らず、俸給を研精のために費やす勤勉ぶりであった。天長10(833)年、仁明天皇のもとで東宮学士に抜擢されるが、承和の変(842年)での皇太子廃立のあおりを受け、一時周防権守に左遷されてしまう。しかし、翌年には文章博士として中央への復帰を果たし、斉衡2(855)年、彼の人生最大の功績となる、わが国4番目の国史編纂の勅命を受ける。
 国史の撰者には、当時の最高権力者・藤原北家の良房を筆頭に、参議の伴善男(とものよしお)、実務担当として善縄らが指名された。その編纂過程では、開始間もなくこの事業を命じた文徳天皇が崩御し、その後、応天門の変(866年)による伴善男の失脚などで5名の撰者のうち、良房と善縄以外がすべて脱落する事態に陥った。結局、先帝の遺業を引き継いだ幼帝・清和天皇のもと、撰者の補充が行われないまま編纂が進められ、その終盤の実務は、必然的に善縄のみの手に委ねられていった。しかし、善縄はこの苦境を乗り越え、ついに貞観11年(869)、仁明天皇一代の実録を『続日本後紀』として完成させたのである。
 善縄は、国史編纂事業のただ中、貞観2年、参議に栄進し、朝政の中枢を担う公卿の列に加えられた。政争渦巻く平安初期の朝廷にあって、彼は、生粋の学者として常に謹朴で、学者たちの争いにも孤高を守った。年齢を重ねるごとにますます聡明で、紡ぐ文章は更にに美麗さを増したという。その彼も、国史編纂を終えた直後の同12年初め、力尽きるように病に倒れ、間もなく京の自邸で74年の人生に幕を下ろした。
 員弁郡藤原町長尾には、かつて「春澄屋敷」と称された善縄の邸宅跡伝承地があり、そこには彼の偉業をしのぶ郷土の人々によって春澄社が祭られ、崇敬を集めてきた。明治41(1908)年、同社は猪名部神社に合祀され、没後千年以上の時を経た現代の員弁の地を、静かに見守っている。
 ところで、彼には、男女4人の子があったが、その才知を受け継いだものはなく、春澄氏は承平元(931)、善縄の娘洽子(あまねいこ)の記録を文献上の最後に、歴史を覆う闇の中に姿を消してしまう。しかし、善縄の成し遂げた『続日本後紀』編纂の大業は、現在に至るまで、古代史研究の道標として平安時代の歴史の一角を照らし続けているのである。

(県史編さんグループ 笠井 佳代)

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