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郡境をめぐり古代は紛糾も−氾濫繰り返した櫛田川


櫛田川、祓川周辺の航空写真(国土交通省提供)

櫛田川、祓川周辺の航空写真(国土交通省提供)


 現代のように護岸工事のなされていない昔の河川は、頻繁に氾濫し、周辺の人々の生活を脅かし続けた。中世史料中でよく見かける「川成」という言葉は、氾濫によって田畑が、文字通り川となってしまったことを指している。現在の松阪市域の南部を流れる櫛田川も、氾濫を繰り返した河川の一つである。
 もともとの櫛田川の本流は現在の祓川筋であり、平安時代の初めには「多気川」と称して、飯野郡と多気郡の郡境をなしていた。しかし、承和14年(847)多気川は大氾濫を起こし、北西方向に約4q、すなわち飯野郡内へと、その流れを移動してしまったのである。それが現在の櫛田川とされている。
 郡境であった河川の移動は、早速、大きな問題を引き起こした。
 いまだ律令制下にあった当時は「班田収授法」と言って、6年に1度、農民に口分田を班給することを原則としていた。班田の作業は各国衙が主体となって実施されたが、実務は、各郡の行政官である郡司に任されていた。
 多気川が氾濫した2年後の嘉祥2年(849)に実施された班田で、多気郡司は、郡境であった川の移動は郡境そのものの移動であるとして、現在の櫛田川と祓川に挟まれた、本来飯野郡内である田を勝手に多気郡の農民に班給してしまったのである。
 もちろん、多気郡司が主張するような郡境の移動はありえず、飯野郡司と、この周辺に荘園があった東寺からも、猛烈に抗議されている。この事態は、当時飯野郡が伊勢国司の管轄であったのに対し、多気郡は神郡として伊勢神宮の管理下にあったことから発生したものと考えられている。
 その後も櫛田川は氾濫を繰り返した。保安2年(1121)8月25日に発生した洪水について、東寺領大国荘の専当らが提出した被害届けによると、20町以上の田畑が川成となったほか、人家7軒が流失。死者1名。牛馬10匹の被害が出ているのである。しかし、そこに生活する人々は、損田による年貢の軽減を求めるとともに、すぐに耕地の復元に取りかかっている。中でも、用水路の復元には最も力を入れている。
 主要な用水路は「広深各八尺」とあり、幅・深さとも、おおよそ2・5mもあった。よって、それを復元し、あるいは新たに掘削するためには、多大な労働力が必要であった。保安の洪水で破壊された用水路を修復するための労働力は、1反切りで50〜60人と見積もられている。
 耕地整理や宅地開発が進んだ現在では、ほとんど確認できなくなったが、終戦後間もなく、米軍により撮影された航空写真には、氾濫を繰り返した櫛田川の爪痕が、まるで鱗のように重なって確認できる。と同時にそこには、その都度耕地を復元した人々の努力の跡も、深く刻み込まれているのである。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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