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鳥鈕蓋付台付壺 再考を−「蟹穴古墳出土」根拠なく


答志島出土の鳥鈕蓋付台付壺(『三重県考古図録』より)

答志島出土の鳥鈕蓋付台付壺(『三重県考古図録』より)


 新しい年を迎えた。今回は、酉年にちなんで、鳥羽市の答志島から出土した「鳥鈕蓋付台付壺」という土器を紹介してみよう。
 この土器は、古墳時代後期の6世紀末から7世紀初め頃に作られた須恵器である。須恵器とは5世紀代に朝鮮半島から渡来した技術で製作された硬質土器で、地下式・半地下式の穴窯で約千百度の還元焔で焼成されるため、青灰色を呈している.
 現在は東京国立博物館に所蔵され、脚部の下半部が欠け木で補修されているものの、形態は鳥形の鈕(つまみ)を付けた蓋が特徴的な台付壺である。人物や動物の小像あるいは子壺などを貼り付けて須恵器を飾る、すなわち「装飾須恵器」で、朝鮮半島からの影響を受け須恵器生産の初期から見られる。三重県ではさほど多くはないが、それでも29箇所の遺跡から装飾須恵器が発見されている。そのうち、大山田村(現伊賀市)下中島2号墳から出土した台付壺には、馬形・鹿形や子壺とともに鳥形の小像2体が肩部に貼り付けられている。また、全国的にも珍しい鳥形はそうという祭祀用の特殊須恵器も明和町神前山1号墳から発見された。古代において、鳥は人間生活に最も深い関わりをもってきた動物と言われ、装飾須恵器にも多く鳥形が用いられたのである。
 しかし、鳥鈕蓋付台付壺は、答志島出土のものが県内唯一である。これまでの研究によれば、この時期の鳥鈕蓋付台付壺は愛知県を中心とした地域に出土地が限られるらしい。答志島の古墳には尾張や三河地方の影響があることはしばしば指摘されるところであるが、やはり古墳時代に伊勢湾をめぐる一つの文化圏が想定できる。また、他の鳥形は翼をたたみ止まっているのに対して、答志島出土のものは今にも飛び立とうと両翼を広げているのは珍しく、1954(昭和29)年発行の『三重県考古図録』でも「とくにとびたつ姿をあらわしたところに興味がある」と記している。
 なお、この鳥鈕蓋付台付壺の出土地について、東京国立博物館の目録に「鳥羽市答志町出土」とあるだけなのに、いつの間にか「蟹穴古墳出土」と表記される書籍が見られるようになった。『日本の陶磁』などをはじめ全国的によく利用されるもので、蟹穴古墳出土が一般化してしまった。この蟹穴古墳とは、自然釉の掛かった綺麗な須恵器台付長頸壺で今は重要文化財にもなっている土器を出土した古墳で、1998(平成10)年には県史編さん事業の一環として発掘調査を実施したことがある。蟹穴古墳から土器が発見されたのは1921(大正10)年で、1923年に当時の東京帝室博物館に寄贈された。このときの一連の公文書『埋蔵物録』にも鳥鈕蓋付台付壺のことはいっさい触れられていない。また、蟹穴古墳の発掘調査結果においても鳥鈕蓋付台付壺の出土を裏付けるような資料はなかった。
 ただ、別人からの寄贈ではあるが、蟹穴古墳の遺物と同じ日に博物館に受け入れられている。そのことで同一視された可能性もある。さらに、三重県考古学界の先駆者鈴木敏雄が1961年に記した『鳥羽市答志町考古ノート』で図面の説明では「答志村出土」としか表記していないのに、本文の「ガニアナ古墳」の項に「又本古墳カラハ脚付蓋付坩ガ出土シテイル。シカモ坩ノ頂ノ上ニハ両翼ヲ張ッタ鳥ヲ付ケテ居リ」と記していることから、その後の研究者たちが蟹穴古墳出土としたとしても不思議ではない。しかし、前述したように、蟹穴古墳出土の根拠は全くない。「蟹穴古墳出土」の説がかなり流布しまったが、もう一度原点に戻って、この鳥鈕蓋付台付壺の出土を考える必要がある。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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