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はめ込み扉に驚き−久居・上野遺跡の家形埴輪棺


上野遺跡出土の家形埴輪(久居市教育委員会所蔵)

上野遺跡出土の家形埴輪(久居市教育委員会所蔵)


 民間企業の宅地開発事業に先立って、平成11年秋から1年6ヶ月をかけて久居市戸木町にある上野遺跡の発掘調査が市教育委員会によって行われた。この間、家形埴輪を棺に転用した古墳時代の墓、四角い区画溝で囲まれた中世の屋敷跡群、滋賀県信楽産の小型壺(蹲(うずくまる))、戦国時代後半の大堀跡など全国的にも注目される発見が相次いだ。調査区域の外に遺構が続いていることもわかってきた。その重要性に鑑み、平成13年には文化庁の補助を得て遺跡がどこまで拡がるかを調べる範囲確認調査を行った。その結果、遺跡はさらに西側に延びることが確実となった。その後、遺跡の取り扱いについて協議が重ねられ、関係者の努力と熱意により、平成16年10月から平成17年4月まで未調査区域の発掘調査が実施された。調査の結果、縄文時代から近世初頭まで続く複合遺跡であることがわかった。
 今回は、全国的に注目された発見のうち、家形埴輪の出土から復原まで順を追って見てみよう。
 家形埴輪棺墓が出土したのは平成12年3月であった。甕や円筒埴輪などを棺に使用する例はよく見られるが、家形埴輪を棺に転用した例は全国で初めてのことで、当時大きく報道された。記憶に留めている方もあるかもしれない。古墳本体である墳丘や埋葬施設は後の時代の開墾などですでになく、墳丘をめぐる周溝が残っているだけであった。その周溝に、2個の家形埴輪がカプセルのように底と底を合わせて寝かせるような格好で出土した。明らかに古墳周溝内埋葬の典型的な例で、その大きさから見て乳幼児を埋葬したものであろう。堆積した土の重みなどで埴輪は潰れており、出土状況を図化し、大型カメラで撮影した後に埴輪の破片を一片一片慎重に取り上げた。現地調査終了後、見つかった遺構や出土した土器を詳細に分析し、記録写真や測量図面などとともに1冊の発掘調査報告書に上梓することになるが、その過程で一つの発見があった。
 それは家形埴輪の構造で、1体は高さ40p、間口30p、奥行き27p、屋根は寄棟造りで、正面には扉が線で刻まれ、妻側には径5pほどの丸窓が穿たれて、壁には綾杉文様が描かれている。もう1体は、高さ49p、間口33p、奥行き28p、高床式建物を表現したものである。屋根の造りや壁の模様は先の1体とよく似ていたが、細部をよくよく観察したところ、扉は四辺をヘラ状工具で切り取って後から填め込む方式であることがわかった。驚きであった。左端の上下には蝶番を表す突起もヘラ書きの線で表現されていた。填め込み式の扉をもつ家形埴輪は全国的に見てもたいへん少なく、県内の出土例は、伊勢市赤土山古墳出土家形埴輪などごく限られたものである。単なる装飾的な線刻模様ではなく、より写実的な取り外しのできる扉としたのである。また、上野遺跡の家形埴輪はその形式から製作年代は5世紀末と推定される。しかし、棺として埋葬された時期は、同じところから出土した須恵器の形態や特徴から見て6世紀前半と考えられ、数十年の開きがあることもわかってきた。とすれば、この間、埴輪本体と扉は離れ離れにならずずっと近くにあったわけである。
 元来、雲出川中流域の左岸一帯は考古学的資料の少ないところであったが、今回の上野遺跡の調査でこの地域の重要度も飛躍的に高まった。今後の研究成果が待たれる。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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