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海上交通支えた菅島の御篝堂と灯台


 夏になると、海へ出掛ける方も多いと思います。海水浴をされる方、浜辺でのんびり過ごされる方、様々な海の楽しみ方がありますが、皆さん、沖に浮かぶ船を御覧になることもあるでしょう。今日は、その船の航行には欠かせない灯台についてお話したいと思います。
 江戸時代には、大消費地となった江戸に物資を運ぶための海上輸送が発達しました。特に経済の中心である大坂から熊野灘を通る航路は「海の東海道」と呼ばれるほど重要視され、それに伴い伊勢湾に入港する船も増大しました。ところが、この海域は岩礁が多く海難事故が絶えませんでした。現存する尾鷲の「須賀利浦方文書」や「尾鷲組大庄屋記録」等の古文書を見ると、難破する船がいかに多かったかがわかります。
 鳥羽の菅島付近は、当時の船乗りたちから「鬼ケ崎」と呼ばれ、恐れられていました。現在の南島町東宮出身の河村瑞賢が、幕府に航路標識の必要性を建議したこともあって、延宝元年(1673)、菅島村東北端のしろヶ崎に篝(かがり)火を焚き目印とする「御篝堂」が建てられました。これが三重県での灯台の前身となり、また、安乗や神島でも「燈明堂」と呼ばれるものができました。いずれも、幕府の命令によって鳥羽藩が建てたものです。
 菅島の「御篝堂」は瓦葺きの小屋で、瓦は風雨に耐えられるよう漆喰(しつくい)でとめてありましたが、何度となく暴風雨に遭い修復を余儀なくされたようです。さらに、瓦には鳥羽藩主内藤飛騨守の家紋である「下り藤」が入っていたとも言われています。小屋の番人は常時2人で、家族と共に住んだそうです。また、菅島の松はすべて篝火用とされましたが、次第に不足し、宝永7年(1710)には船津村の薪屋から薪を入手するようになりました。
 こうして、明治6年(1873)に洋式の灯台が完成するまでの200年間にわたって、菅島の「御篝堂」は、志摩の海を照らし、船乗りたちの安全を見守り続けました。
 なお、明治六年に完成した灯台は、ブラントンというイギリス人技師の設計によるもので、現在、この灯台の付属官舎は博物館明治村(愛知県)に移築復元されています。

(平成5年7月 井上しげみ)

菅島灯台位置の「布告横文」(『太政類典』国立公文書館蔵)

菅島灯台位置の「布告横文」(『太政類典』国立公文書館蔵)

参考文献

中田四朗「菅島村の御篝堂―近世の回船交通と志摩」『海と人間』15号 海の博物館 昭和63年
横浜開港資料館『R・H・ブラントン 日本の灯台と横浜のまちづくりの父』 平成3年

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