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偉大さ語り継がれる女教師・根本貞路


 春4月、新年度を迎えました。特に学校では、入学や進級、そして指導を受ける先生も代わりました。新たな気分で学習に取り組もうと頑張っている人も多いのではないでしょうか。今日は、幕末から明治期にかけて、現在の津市雲出で多数の児童を教え、今も地元の人々にその偉大さが語り継がれる女教師の話をしてみようと思います。その女教師の名は、根本貞路(てる)と言います。彼女はもともと雲出の人ではなく、かつては仙台藩の医者を務めた根本信親の養女として育ちました。信親は、医術だけではなく漢学・国学・書道・俳句にも精通し、こうした環境の中で、貞路の教育者としての資質が培われていったようです。天保8年(1837)の冬のころ、故あって、貞路は養父信親と共に、この伊勢の地・雲出にやってきました。
 やがて、この親子は塾を開き、雲出周辺の子供たちに学問を教え始め、貞路も手習を教えていました。そして、嘉永6年(1853)、貞路が36歳のとき、養父が亡くなると、貞路は一人で雲出長常村の光徳寺で読書・習字の寺子屋を開きました。その寺子屋は、雀が集まる堂と書く「雀集(じゃくしゅう)堂」と名付けられ、以後20年間、貞路はその寺子屋教育に専念しますが、貞路はいつも男装して袴を着け、厳しく熱心に教えたため、周辺の村々にも評判で、各地から教え子が集まったそうです。
 明治6年(1873)3月、雲出にも学制に基づく本郷小学校(現雲出小学校の前身)が創立され、貞路も村民の要望を受け、新しい学校の教員として再出発しました。貞路56歳のときです。この学校の教員は3人で、女子の教員は貞路1人でした。三重県全体では、明治6年当時の公立小学校は28校あり、教員388人のうち女子教員はわずか5人で、非常に数少ない存在であると同時に、当時の常識では隠居しても不思議でない年齢の貞路が再び教員になったことは、教育に対する熱意の高さを感じるところです。
 その後、貞路は69歳の明治19年まで教員を続け、自ら雀集堂を開いたころから33年、父を助け手習いを教え始めてから約50年の間に、教えた児童は近郷12か村の男女3,000人以上に及ぶと言われています。小学校教員の身分は、終生助手のままでしたが、それでも、現在の雲出小学校の校長室には、歴代の校長に並べて貞路の写真が掲げられ、一部には雲出小学校の初代校長という説も伝わるほど、偉大な教育者であったようです。また、校庭(旧雲出小学校地)の一角には、開校100周年記念として「根本貞路先生の像」が立てられ、その功績が讃えられています。

(平成3年4月吉村利男)

根本貞路先生(雲出小学校蔵)

根本貞路先生(雲出小学校蔵)

旧雲出小学校玄関部と貞路先生像(平成7年9月撮影)

旧雲出小学校玄関部と貞路先生像(平成7年9月撮影)

参考文献

佐々木仁三郎「<津にゆかりのある人々(15) 〉根本貞路女史―幕末から明治への偉大な女子教育者」『津市 民文化』第5号 津市教育委員会 昭和54年
中日新聞三重総局『三重の女の一生』光出版印刷 昭和56年
佐々木仁三郎『近世郷土の教育先賢 根本貞路・阿保友一郎・相沢英次郎』三重県良書出版会 平成4年

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