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「天保の大飢饉」とその救荒


 昨年は長雨で米不足、今年は雨が少なく水不足と、天候は人々の生活に大きく影響を与えます。今でもその対策におおわらわですが、江戸時代にはもっと大変でした。今からおよそ160年ほど前には、天候不順が数年続き、凶作で、多くの餓死者を出しました。それは「天保の飢饉」として知られています。雨が多く、大洪水が起こり、冷害のために作物はできず、人々は食べる物がなく、各地に行き倒れや死者が出る大飢饉となりました。三重県域も例外ではなく、水害により飢饉に見舞われました。当時、この飢饉に遭遇した人たちの努力について、いくつか紹介してみましょう。
 そのときの津藩主藤堂高猷(たかゆき)は、前藩主高兌(たかさわ)が考え非常時用として蓄えてあった米、すなわち囲米(かこいまい)を人々に分配しました。また、津藩士であった平松楽斎(らくさい)は、山や野原などで採れる草の中で食べられるものを選び出し、ゆでて食べられるもの、水にさらすものなど、その食べ方を記した『食草便覧』という刷物を作り、人々に配布しました。野草の種類は60種類にものぼり、楽斎自らも食して、食べられることを確認しました。そして、この野草と少しの米・麦を混ぜた粥を作り、1日に何百人もの人に供しました。
 この楽斎と交流のあった国学者・足代弘訓(あじろひろのり)は、糠(ぬか)に小麦とそば粉を混ぜて作る糠団子の作り方を、今の芸濃町、楠原村にある浄蓮寺の和尚さんから教えてもらい、同志と共にこの糠団子を配ったりしています。また、富豪者の協力を得られたため、何度も糠団子を配ることができたと、楽斎にあてた手紙に書かれています。
 こういった人々の工夫と救済により、他の地方に比べ、三重県域は餓死者が少なかったと言われています。先に述べた平松楽斎は、その後、津藩の郡奉行になり、天保の飢饉で荒廃した村々を回り、農民の窮乏を救うために藩が資金を融通したり、高利で貸付けをする者を取り締まったりしました。また、水不足で困っているところには深井戸を掘り、災害で破損した堤防や池などの普請をし、各村々の復興に力を尽くしました。その克明な記録は『照心日乗(しょうしんにちじょう)』という日記として残されています。
 物質の豊かな現在では、物が不足すると、すぐにそれに代わる物が出てきますが、何もなかった天保の時代の飢饉を、知恵と工夫で 乗り切った人々の姿から教えられるものがあるのではないでしょうか。

(平成6年11月 茅原廉子)

平松楽斎画像(『津市文教史要』)

平松楽斎画像(『津市文教史要』)

『食草便覧』版木(津市教育委員会蔵)

『食草便覧』版木(津市教育委員会蔵)

参考文献

『津市文教史要』津市教育会 昭和13年
『日記 照心日乗(一)〜(五)・焚香後記』平松楽斎文書 4〜8 津市教育委員会 昭和53〜57年

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