安濃町に伝わる「孝女登勢」
今日は、安芸郡安濃町に伝わる「孝女登勢(とせ)」のお話をしたいと思います。
登勢は、約200年前の天明の末期、北勢員弁郡のある財産家の娘として生まれ、すぐ奄芸郡山田井村(現津市)の吉兵衛に引き取られ育てられました。しかし、吉兵衛に実子が多くできると、登勢は6歳のとき再び養女に出されることになります。新しい養父母は、安濃郡連部村(現安濃町)に住んでいた伝蔵夫婦で、「持高の田畑わづかに10石ばかりありて、乏しき農家」でしたが、夫婦には実子もなく、仲むつまじく生活をしていました。ところが、元来虚弱体質であった父伝蔵や母が病気になり、生活はますます苦しく、家財は残らず人手に渡り、3人は粗末な竹小屋で雨露をしのいでいました。
13歳になった登勢は、そんな養父母のため、奉公に出る決心をします。そして、早朝から目まぐるしく働き、深夜には竹小屋に戻り両親の世話をし、朝また夜が明けないうちに奉公に出るという毎日でした。登勢の姿を見た人たちは、「遊びたい盛りに、いずれ自分も病気になるのでは」と心配し、前の養父吉兵衛も「早く帰って来い」と説得します。しかし、登勢は「幼少より厚い恩を受けてきて、ただ両親を大切に思うだけです」と、いつも明快に答え、両親の面倒を見続けました。
登勢の孝行に感謝した養父母は、登勢を気遣い、村方の人とも相談して2人だけで湯治の旅に出ます。それは果てることを覚悟したもので、両親の思いを知った登勢は、すぐに2人のあとを追い、道すがら両親を介抱し、湯治・祈願の旅を続けました。一度目は熊野湯治から四国33ケ所へ、二度目は信州善光寺と諏訪への湯治の旅で、険しい山坂を越えるときは、1人を待たせ、1人を背負い、あわてて戻り、また背負うといったものでした。
二度の旅から帰郷した後、登勢は奉公をやめ、両親の看護に専念します。文化4年(1807)のことで、翌 5年には津藩主も孝心を褒賞して米20俵を下賜しました。しかし、こうした保護もむなしく、4年後には父、その6年後には母が息を引き取りました。登勢は狂ったように泣き叫び、村人すべての涙を誘ったということです。
なお、登勢は、天保11年(1840)、53歳で死去しますが、その後、津藩により墓碑が立てられ、今に「孝女登勢(世)」を伝えています。
(平成4年9月 池田陽子)
『孝女登勢伝』挿絵(部分)(坂口茂氏蔵)
登世の墓碑
参考文献
『孝女登勢伝』山形屋伝右衛門板 文化6年 坂口茂氏蔵
中日新聞三重総局『三重の女の一生』光出版印刷 昭和56年
『安濃町史』資料編 平成6年