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津藩の改革実施と寛政一揆


 今日は、今から200年ぐらい前の寛政8年(1796)12月に起こった津藩の寛政一揆について、お話します。「寛政」の前の年号は「天明」で、「天明の大飢饉」が有名です。こうした飢饉の影響もあり、幕府では「寛政の改革」を行い、財政の建て直しを図りますが、津藩も財政難でいくつかの改革を実施しました。例えば、果実の木の植え付け、稲作に邪魔な立木の伐採や農村の見回り強化などです。そのうち、郡奉行の茨木重謙(しげあき)の発案した「均田制」は、生活に困る38カ村の田畑山林を村の家数で平均して分配し直すというもので、これまでに苦労して田畑を手に入れた農民や広く耕作し農業を営んできた農民にとっては、一夜にしてその財産を失うわけですから、どの村も強く反対しました。
 現在の一志郡白山町や久居市榊原の小倭(おやまと)郷の農民たちは、この「均田制」の中止を願い出ましたが、藩側は強行しようとして、農民一揆となりました。暮れも押し迫った12月26日の夕刻、小倭郷の農民たちは、蓑笠を着け、竹槍を持ち、近くの村々に参加を呼び掛けながら、二つの隊に分かれて津の城下をめざしました。途中、一揆に参加しない村には放火をすると脅かしたり、藩の役人や藩側につく庄屋などの家を打ち壊したりしたので、騒ぎが大きくなりました。また27日には、一志郡の農民だけでなく安濃郡や鈴鹿郡の農民も津城下に押し掛け、一揆勢は3万人にもなったようです。
 これに対して、藩側では農民を説得しますが、騒ぎはなかなか収まりませんでした。28日になって、藩の役人が津岩田の阿弥陀寺に農民を誘導し、願いの趣旨は聞き届けるとの書付けを渡したことや、夜から降り始めた大雪によって農民たちはひとまず村に帰り、翌日藩側が「均田制」実施の中止を決定したことで、騒ぎはようやく収まりました。しかし、津城下の警戒体制は続き、一揆の様子を書いた『岩立茨(がんたちいばら)』という書物には「町々は なんにもなしの 年の暮れ ただかまびすし 火用心の声」とうたわれており、火の用心の声だけが騒がしく、いつものような大晦日や正月の行事も取り止められたのです。
 翌年3月には改革の中心人物茨木重謙は郡奉行を免職にされ、谷杣(たんぞま)村(現久居市)庄屋町井友之丞ら一揆の首謀者たちも寛政10年に処罰されましたが、この一揆のことは長く伝えられ、久居市榊原の海泉寺には「世直し大明神」として祀られた首謀者たちの顕彰碑が大正2年(1913)に立てられています。また最近では、白山町の特産品が「一揆味噌」と名付けられ、その歴史の一端をとどめています。

(平成5年12月 海津裕子)

町井友之丞の辞世の句(海泉寺蔵)

町井友之丞の辞世の句(海泉寺蔵)

顕彰碑

顕彰碑

参考文献

深谷克己『寛政期の藤堂藩』三重県郷土資料刊行会 昭和44年
『久居市史』上巻 昭和47年

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