参宮客を見守り続けた常夜灯
日永追分から内宮前宇治橋までの伊勢道(参宮街道)は、江戸時 代、東海道に次いで往来が多いと言われた街道で、江戸など東国の人々はこの道を通って伊勢まいりをしました 。
また、京都や西国の人たちは鈴鹿の関から津の江戸橋に至る伊勢別街道を通って伊勢神宮に向かい、現在の国道165号線や166号線に沿った初瀬街道や和歌山街道なども全国からの参宮客でにぎわいました。そこで、今日は、江戸時代の伊勢参宮客と街道沿いに建てられた常夜灯についてお話してみようと思います。
幕末当時の伊勢参宮客は、およそ年間40万人と言われていますが、特に文政13年(1830)の「おかげまいり」のときには、約500万人の参宮客があり、当時、全国の人口が約3,000万人であったことを考えると、その数がいかに驚異的であるかがわかります。
そのころ、街道沿いには今の街灯に当たる常夜灯がいくつも建てられ、夜になると灯がともり、旅人の安全を見守りました。それらの常夜灯の中には、伊勢神宮に関係したものがいくつかあります。たとえば、津市栗真小川町の常夜灯には「太神宮」の刻銘があり、同じ、栗真町屋町の常夜灯は「両宮 常夜灯」と刻まれており、伊勢神宮に対する信仰と参宮客の道中の安全を祈願して建てられたことがうかがえます。
さらに、これらの常夜灯の寄進者の名前を調べてみますと、栗真町屋町の常夜灯は武州岩槻(現埼玉県)の木綿問屋たち、伊勢別街道の津市大里窪田町の「両宮」と刻銘ある常夜灯には、「松前江指」や「箱館」、すなわち北海道の人の名前も見られ、遠くからの伊勢参宮への思いがしのばれます。
このように、江戸時代には全国津々浦々に伊勢神宮に対する信仰が浸透し、三重県内のいくつかの街道は伊勢参宮の旅人でにぎわい、それに従って街道もだんだんと整備されてきました。
(平成4年11月 茅原廉子)
栗真町屋町の常夜灯(同下)
大里窪田町の常夜灯(平成7年9月撮影)
参考文献
『伊勢別街道―歴史の道調査報告書』三重県教育委員会 昭和58年
『伊勢街道・朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道 ―歴史の道調査報告書』 三重県教育委員会 昭 和61年