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伊勢志摩の製塩と西黒部の転換


 夏も終わりに近づき、海辺で遊ぶ人の姿もめっきり少なくなってきました。今日は、日常生活で欠かすことのできない塩作りの歴史について、少しお話しましょう。
 古来の塩作りについては、伊勢神宮の祭祀用の塩を作る二見町の御塩殿が有名です。例年夏の土用の間に行われ、今年も7月20日から一週間、御塩浜と呼ばれる遠浅の砂地に海水を導き、太陽熱と風力によって水分を蒸発させ「鹹(かん)水」という濃い塩水を作ることから始まりました。8月5日からは塩水を釜に入れ、煮詰めて荒塩を採る御塩焼きが行われ、さらに10月には荒塩を土器に詰めて焼き固めて堅塩に仕上げられます。こうした昔の入浜式塩田による製塩技術が今に伝えられています。
 伊勢志摩の製塩は、平城宮に塩を納めた木簡、平安時代の県内遺跡から多く出土する「製塩土器」、度会郡南島町や志摩郡磯部町で発掘調査された中世の製塩竈跡、南島町・南勢町に残る「竈」の付いた地名や中世以降の「竈方古文書」等から、古来より盛んだったことがわかります。
 そして、江戸時代になると、藩の財政収入を目的として塩が作られ、堤防技術の進歩とともに遠浅の海岸に入浜式の塩田が姿を見せ始めます。それ以前に比べて大規模な塩田経営がなされることになりました。
 当時の三重県域の塩業地としては、現在松阪市の黒部があげられます。『勢陽五鈴遺響』の中に「黒部塩」の名が見られ、松阪市立図書館所蔵の西黒部文書の承応2年(1653)の『検地帳』にも「いノかま」「西がま」「ままがま」等の小字名があり、塩竈を設け、製塩業が盛んであったことが推測できます。
 江戸時代、東黒部村は津藩領に、西黒部村は和歌山藩松坂領として支配されており、東黒部村では津藩の方針により江戸時代を通じて塩業が行われていました。しかし、西黒部村では、和歌山藩の政策による慶安期(1648 〜52)の開田や延享2年(1745)〜宝暦6年(1756)の竹内五藤左衛門の大規模な新田開発などに伴って、塩作りの村から米作りの村へと大きく変貌してしまいました。その背景として、瀬戸内地域で新しい入浜式の製塩技術が発達していたのに対し、和歌山側は地形的に入浜式の製塩が適せず、藩は塩より米を重視し、松坂領もその影響を受けたのではないかと考えられますが、いずれにしても、塩作りから米作りへの転換は当時の人々には一大事であったことでしょう。

(平成3年8月 川合健之)

二見の御塩浜(平成6年5月撮影)

二見の御塩浜(平成6年5月撮影)

参考文献

西山伝左衛門『黒部史』昭和30年
佐藤誠也「伊勢神宮ゆかりの二見浦」『三重県のかくれた名所』三重県良書出版会 昭和61年

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