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麗沢舎の設立と「伊賀心学」の隆盛


 今からおよそ280年前、江戸時代中期の享保年間に、商人や農民の正しい生き方や家業の持つ社会的意義について適切・平易に説く学問を石田梅岩(ばいがん)が京都で始めました。これを心学(しんがく)と言います。
 この心学は梅岩の弟子たちによって全国に広められていきますが、寛政元年(1789)に京都で出版された『諸国舎号』という書物には心学が講義された全国の学舎が記載され、その中に現在の伊賀町柘植にあった麗沢舎(れいたくしゃ)の名が載っています。麗沢舎は近江出身の心学者・立川肥遯(ひとん)が開いたもので、学舎は土地の有力者で医師であった富山采逸(さいいつ)の宅地が使用されました。また、松尾半次・山本六大夫・稲垣幸蔵らが私財を投じて、自ら心学の研鑽をはじめ、学舎の実質的経営に携わっていました。折々の講師には、京都から心学の指導的地位にいた上河淇水(きすい)や祖先が柘植出身である江戸の堀田一之(かずゆき)らが招かれ、柘植周辺の村々にも巡回して講義を行った、と日記などに記録されています。
 現在、麗沢舎の建物は現代風に改装されていますが、三重県の指定史跡になっていて、その場所の庭には「旧麗沢舎跡」と刻まれた碑が立っています。
 伊賀には、この柘植の麗沢舎のほか、上野に有誠舎(ゆうせいしゃ)があり、盛んに心学教化が行われました。一時、心学熱は下火となりますが、江戸時代後期に心学者の柴田游翁(ゆうおう)が伊賀上野に招かれると、再び隆盛を迎え、「伊賀心学」と呼ばれるまでに発展していきます。
 農村地帯の伊賀の地に心学の学舎が開かれたことは、当時の商業や経済活動発達の影響のほか京都や近江に近いという地理的な理由もあったと思われますが、江戸時代に、伊賀が心学の一大拠点となって、庶民教育に大きな役割を果たしていたようです。
 なお、三重県域では、同じころ、津に勧善舎(かんぜんしゃ)、四日市に克巳舎(こっきしゃ)が、それぞれ藩や地元の援助のもとに心学講義のための学舎が開かれていました。

(平成3年10月 阪本正彦)

県指定史跡標柱

県指定史跡標柱

旧麗沢舎(『三重県知事指定史蹟名勝天然紀念物』)

旧麗沢舎(『三重県知事指定史蹟名勝天然紀念物』)

参考文献

『三重県知事指定史蹟名勝天然紀念物』昭和15年
柴田実『心学』日本歴史新書 至文堂 昭和42年
加藤周一『富永仲基・石田梅岩』日本の名著18 中央公論社 昭和47年
『伊賀町史』 昭和54年

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