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全国に有名な近世伊勢の本草学者


 春うららかな季節となり、ゴールデンウィークを野外で過ごされている方も多いと思いますが、今日は江戸時代に最盛期を迎えた本草学についてお話しましょう。本草学の対象は薬草を基本として、樹木・鉱物・動物にまで及び、言わば博物学の基礎となったものです。
 三重県が生んだ全国的にも有名な本草学者は、野呂元丈(げんじょう)や丹羽正伯(にわしょうはく)などがあげられます。彼らは紀州藩領に生まれたせいか、もと紀州藩主であった将軍吉宗に召し出され、蘭学など実学奨励の担い手になりました。
 野呂元丈は、元禄6年(1693)、今から約300年前に現在の多気郡勢和村に生まれ、叔父野呂三省の養子となり、20歳で京へ上り、本草学を当時一級の本草学者稲生若水(いのうじゃくすい)に学びます。元丈は医者であったので、草木が薬として効果があることに注目して、白山・立山・富士山などに登り、高山植物を採集し研究したのでした。彼の著書には『和蘭陀(おらんだ)本草和解』があります。また、医学的方面における業績では狂犬病の研究があり、『狂犬咬傷治方』は狂犬病に関する専門書としては日本最初のものでした。
 一方、松坂に医師の子として生まれた丹羽正伯は、当時薬草の質が落ちていることから、自ら良質の薬草を栽培しようと思い立ちます。そこで、元丈の師でもあった若水の門に入り、本草学を学び、各地の高山植物の採集に精を出しました。そして、最後には幕府の薬園栽培を指導するほどになり、当時本草学を大成した書物として知られた『庶物類纂』を幕府の命令で増補しました。また、正伯は、良薬に恵まれない山間の農民たちを救うために、手軽な応急処置を解説した『普救類方』を著します。この書物は、一般庶民に広く利用されることになりました。
 さらに、元丈や正伯ら江戸時代中期に活躍した本草学者の影響もあってか、幕末から明治にかけての三重県では、北勢の丹波修治・津の岡安定・多気郡相可の西村広休などの学者を生み出しています。
 このように、三重県域では多数の本草学者が出ましたが、その背景には薬草の自生地が多かったことも一因かもしれません。特に、菰野を中心とした鈴鹿山系・紀伊半島の大台山系は自然の宝庫です。
 恵まれた環境の中で、晴れた日にちょっと出掛けてみませんか。

(平成2年4月 山口千代己)

野呂元丈画像(野呂正一氏蔵 写真勢和村史編纂室提供)

野呂元丈画像(野呂正一氏蔵 写真勢和村史編纂室提供)

参考文献

大西源一「野呂元丈伝」『三重史談会々志』第5巻12号 大正4年 同「野呂元丈伝資料」『同』第6巻3  号 大正5年
伊藤武夫『三重県植物誌』三重県植物誌発行所 昭和7年
伊藤長次郎『三重県薬業史』ミエ薬報社 昭和15年
松島 博『近世伊勢における本草学者の研究』講談社 昭和49年
門暉代司「蘭学の先駆者・野呂元丈」『わたしたちのふるさと勢和』勢和村 平成7年

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