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松尾芭蕉、その帰郷と旅


 今日は、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉についてお話しましょう。
 芭蕉は、正保元年(1644)伊賀国無足人・松尾与左衛門の次男として生まれました。幼名を金作、のちに 宗房(むねふさ)と名乗り、弱年のころより、藤堂藩伊賀付五千石の侍大将・藤堂新七郎家に召し出されていました。2歳年上の嫡子良忠の近くに仕えながら、本名を音読した「宗房(そうぼう)」を俳号とし、俳人・北村季吟(きぎん)に師事して、「蝉吟(せんぎん)」と号している良忠と共に俳諧をたしなんでいました。ところが、良忠が25歳で病死したため、宗房は藤堂家を去り、京都へ遊学しました。そして、29歳のときに三十番発句合『貝おほひ』を著わし、伊賀上野の天満宮に奉納したのち、俳諧師として立つため江戸に行きました。その後、俳号を「桃青(とうせい)」と改め、35歳ごろには、俳諧の宗匠として独立したようです。延宝8年(1680)住居を江戸の中心から深川に移し、門人李下(りか)が庭に芭蕉の株を植えたことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号としても「芭蕉」を好んで用いました。
 芭蕉は、江戸に移ってからも、しばしば故郷に帰り、伊賀・伊勢の文人と交わっています。貞享元年(1684 )8月、門人千里(ちり)を伴い、伊勢神宮に詣で、伊賀上野に帰郷、前年亡くなった母の墓参もし、そののち大和・吉野・美濃を巡り、翌年4月江戸に戻りました。このときの紀行文を『野ざらし紀行』と言います。また、貞享4年10月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎えます。このとき、芭蕉は故郷へ万感の思いを込めて、「古里や 臍(へそ)のをに泣く としのくれ」と詠み、翌年3月には現在の大山田村富永の新大仏寺を訪れ、江戸初期の山津波によって堂塔が潰れ、仏頭のみが石の座に安置されるという荒れ果てた状況を見て、「丈六に 陽炎(かげろう)高し 石の上」と詠んでいます。そのほか伊勢・吉野・高野山・須磨・明石などを巡っていますが、この間の紀行は『笈(おい)の小文(こぶみ)』となっています。
 なお、芭蕉は、これ以外にも日本各地を旅して多くの優れた紀行文を残しています。貞享4年8月鹿島神宮参詣の『鹿島紀行』、『笈の小文』の旅直後に信州更科へ姨捨山の名月を見るために旅した『更科紀行』、そして、最も著名な元禄2年(1689)の東北・北陸への旅『奥の細道』があります。
 さらに、元禄7年5月には故郷への私用も兼ねて九州への旅に立ちますが、10月大坂で病に倒れ、51歳の生涯を閉じました。「旅に病んで 夢は枯野を かけ 廻(めぐ)る」が、旅に生きた芭蕉らしく、辞世の句とされています。

(平成4年5月 海津裕子)

近鉄上野市駅前の松尾芭蕉銅像

近鉄上野市駅前の松尾芭蕉銅像

参考文献

阿部喜三男『松尾芭蕉』吉川弘文館 昭和36年
芭蕉翁記念館『奥の細道紀行三百年記念 松尾芭蕉』上野市・芭蕉翁顕彰会 平成元年

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