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海運・治水に功労、河村瑞賢


 今日は、江戸時代初期に海運・治水に功労のあった三重県出身の豪商・河村瑞賢についてお話しましょう。
 瑞賢は、元和4年(1618)2月、度会郡東宮村(現南島町)に生まれ、13歳のとき江戸に出ました。伝えるところによれば、瑞賢は当初車力をしていましたが、あるとき品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜や茄子が多数漂流しているのを発見し、この瓜や茄子を集め塩漬にして普請小屋等で売り、かなり利益をあげたということです。その間、役人とも知り合い人夫頭になったりして徐々に資産を増やし、材木屋を営みました。そして、明暦3年(1657)の江戸大火に際しては、木曽の山林を買い占め莫大な資産を築き、彼の名は幕府の重臣にも知られるようになりました。
 また、瑞賢は東廻り・西廻り航路の開拓者として有名です。明暦の大火後、江戸では米不足をきたしており、幕府は奥羽地方の米移入を計画します。しかし、従来の利根川河口の銚子(現千葉県)で川船に積み換え、川をのぼって江戸に運ぶという方法では日数がかかりすぎたりして航路の改良が望まれていました。寛文10年(1670 )の冬、幕府から陸奥の産米輸送の命を受けた瑞賢は、早速現地調査を行い、方策を定めました。すなわち、阿武隈川河口の荒浜(現宮城県)から房総半島に向い、相模の三崎か伊豆の下田に行き、西南風を待って江戸湾に入るという航路です。この方策によって従来よりも輸送日数・費用を大幅に減じることができました。
 次に寛文12年、出羽の産米輸送の命を受けると、瑞賢は日本海を十分調査し、出羽の酒田から日本海を廻って下関・瀬戸内海・紀州沖・遠州灘・下田を経て江戸に入ることとしました。西廻り航路の改良です。堅牢な船・熟練水夫を選び、途中の寄港地を定め、入港税免除や開港の水先案内船の設置なども行いました。さらに、暗礁が多い志摩の菅島付近では菅島の山の中腹に毎夜篝(かがり)火をあげ、船に位置を知らせるようにしたのも瑞賢の構想だと言われています。
 このほか、瑞賢は、淀川河口の治水事業にも当たり、越後の高田藩の中江用水や鉱山開発の指導もしています。このような航路の開拓や治水などの功績により、瑞賢は、晩年旗本に列せられ、禄米150俵を賜っています。なお、瑞賢の出身地・南島町では「ふるさと創生事業」の一環として、この6月16日に河村瑞賢の銅像を立て、この郷土の偉人を顕彰しました。

(平成2年6月 海津裕子)

瑞賢銅像

瑞賢銅像

整備された河村瑞賢公園(平成7年12月撮影)

整備された河村瑞賢公園(平成7年12月撮影)

参考文献

古田良一『河村瑞賢』吉川弘文館 昭和39年
『南島町史』昭和60年

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