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海賊から大名になった九鬼氏の盛衰


 今日は、戦国時代から江戸時代の初めに志摩の領主であった九鬼氏についてお話しましょう。九鬼氏は、熊野海賊の一員であったと言われています。海賊と言っても、現在イメージする海の盗賊団という意味ではなく、中世において、船団によって海上を制圧していた各地の軍団のことで、水軍とも呼ばれています。熊野から伊勢にかけても多くの海賊衆が存在していました。九鬼氏もその一つで、史料にはっきりと名前が現われるのは14世紀半ばのことです。当時は南北朝の動乱期で、各地で様々な勢力が盛衰を繰り返していました。九鬼氏は、水軍を背景に、相差や泊(鳥羽)などの志摩地方に力を伸ばしていきました。
 伊勢・志摩の海賊衆は、関東から東海にかけての戦国大名の水軍として組織され、北条氏・武田氏・徳川氏などの戦国大名の海上戦力となるとともに、伊勢の米をはじめとする物資を関東方面に供給する廻船としての役割も果たしていたようです。
 九鬼氏は、織田信長に仕えることとなり、伊勢長島の一向一揆攻めで功績をあげ、大きく力を伸ばしました。信長の死後は秀吉に仕え、朝鮮へも主力水軍として従軍しています。関ケ原の戦いでは、嘉隆(よしたか)と守隆(もりたか)の親子が東軍と西軍に分れて戦い、家康に功績を認められた守隆がその後の志摩の領主として君臨しました。
 九鬼守隆が家臣に指令を伝えた書状が、家臣の子孫のお宅にたくさん残されています。その中に船の建造に当たっての細かな指示があり、安宅船(あたけぶね)と呼ばれる大型の軍船には風呂もついていて、その寸法や形もわかるという、ちょっとおもしろい書状ですが、そのような細かなことまで殿様が直々に指示をする様子から、水軍として船を大切にしていたことがうかがえます。
 このように、水軍あっての九鬼氏でしたが、残念なことに、江戸幕府は諸大名の戦力や経済力を弱めるために、大型船の所持を禁止しました。諸大名の大型船を集めさせ、取り上げてしまったのです。その船の受取りに当たったのが九鬼守隆で、その仕事は各地の水軍の頂点に立つものでしたが、一方、これが水軍の将としての最後の仕事でもありました。
 寛永9年(1632)の守隆の死後、跡目争いが起こったため、志摩の地を取り上げられ、二つの九鬼氏に分裂したまま、現在の兵庫県の三田と京都府の綾部という水軍と縁のない土地に移されてしまいました。

(平成7年2月 鈴木えりも)

戦国大名の水軍

戦国大名の水軍

参考文献

『日本の歴史14』(鎖国)中央公論社 昭和54年
稲本紀昭「九鬼氏について」『三重県史研究』創刊号 昭和60年
『鳥羽市史』上巻 平成三年
永原慶二「伊勢・紀伊の海賊商人と戦国大名」『知多半島の歴史と現在』4 平成4年

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