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家康の「伊賀越え」と甲賀・伊賀者


 明日から6月、日本史年表を見てみますと、「天正10年(1582)6月2日、織田信長、本能寺で明智光秀に襲われ自殺」とあります。有名な「本能寺の変」です。6月2日は旧暦で、今の暦とは若干異なりますが、今日は、この「本能寺の変」に関わる徳川家康の「伊賀越え」についてお話しましょう。
 家康は、「本能寺の変」の起こる数日前から、信長の招待を受け畿内各地を見物中で、泉州の堺で事件のことを聞きました。このとき、家康のお供は、本多忠勝・服部半蔵・武田氏の旧臣穴山梅雪等のわずか30人余りで、中には、京都へ行き信長の弔い合戦をすべしとの意見もあったようですが、この人数ではどうしようもありません。何はともあれ、いったんは早々に本国三河へ帰ろうとしました。
 そのため、家康の一行は、伊賀越えをし伊勢の海から船で三河に渡る最短の経路を選びました。堺から南山城へ出て、近江信楽付近から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、伊勢国へと急ぎました。
 しかし、一行は落武者と同様で、武士と言えども少人数で間道を通行することは危険きわまりないことです。地侍や土民(農民)の一揆の恐れがあり、穴山梅雪は、一行より少し遅れたため土民に殺害されています。家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われたこともありました。家康の生涯においても、大きなピンチの一つであったのです。そのとき、伊賀出身の服部半蔵がおり、甲賀者や半蔵が集めた伊賀者によって助けられたと言われています。このように、家康の一行は、彼らに守られ伊勢までたどりつきました。この「伊賀越え」以来、徳川家康は護衛にあたった彼らを召し抱え、甲賀・伊賀の忍者組織を手の内に入れることになったのです。
 伊勢に着いてからは、どこから船に乗り三河に渡ったか様々な記録が見られます。大きく分けると、白子あるいは若松説、長太浦・四日市説があり、確実なことは言えませんが、いずれにしても、家康は堺を立って2日後の6月4日に本国の三河に着いたということです。

(平成3年5月 海津裕子)

伊賀越え地図

伊賀越え地図

参考文献

『上野市史』 昭和36年
『鈴鹿市史』第二巻 昭和58年
『三重県史』資料編 近世1 平成5年

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