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大河内城の戦いと信長の伊勢進攻


 昨年来、織田信長がブームとなっていますが、そこで、今日は、織田信長の南伊勢への進攻について、現在松阪市にある大河内(おかわち)城の戦いを中心にお話しましょう。
 永禄12年(1569)8月20日に岐阜を出発した信長は、23日、前もって寝返りさせておいた木造(こつくり)氏の木造城(現久居市)に入り軍議を開きました。一方、南伊勢を治めていた北畠氏は、信長に対抗するため本拠の多気城(霧山城=現美杉村)から大河内城に移り、ここに一族郎党を集めて戦いに備えていました。信長は26日に木造城を出て、大河内城へ向けて進軍しました。
 また、一方では阿坂城主大宮入道が降伏を拒絶していたため、木下藤吉郎らの一隊に攻撃をさせ、阿坂城(現松阪市)を落しました。『信長公記』によれば、藤吉郎はこのとき生涯唯一の傷を負ったとされています。
 木造城を発った軍勢は、翌27日大河内城の北東桂瀬山に陣を置きましたが、兵力は織田軍五万、篭城した北畠軍7,8千と言われています。ここで信長の取った戦術は、部隊を四方に分け、城の周囲を二重三重の柵で取り囲み、完全に外部との往来を断つというものでした。さらに、この戦いでは鉄砲が用いられました。また、当時信長に人質として預けられ、のちに松坂城主となる蒲生氏郷(がもううじさと)が初陣を飾ったということです。
 総攻撃をかけてから、龍蔵庵口、魔虫谷の戦闘など多くの戦いがありましたが、大河内の城兵の奮戦で織田軍は有力な武将を失い、大変な痛手を被りました。そして、攻撃開始から二か月になるのに落城しないことに焦ら立つ信長は、城中に使いを送り、北畠具教(とものり)が多気城を去り隠居するなら自分の三男の茶箋丸(のちの織田信雄)を養子に遣すという和議を申し入れたのです。北畠方はこれを受け入れ、10月初旬両者は和睦しました。
 この大河内城の戦いをはじめとする伊勢への信長の進攻はこれまでにテレビや書籍で大きく扱われることはありませんでしたが、多くのエピソードを含んでいます。政略結婚など外交交渉にも優れた才能を持っていた信長の一面を知ることができます。

(平成4年1月 田所寛士)

大河内城要図(『日本城郭大系』)

大河内城要図(『日本城郭大系』)

大河内城遠望(北西方向から、平成7年10月撮影)

大河内城遠望(北西方向から、平成7年10月撮影)

参考文献

桑田忠親『改訂信長公記』新人物往来社 昭和44年
『日本城郭大系』第10巻 新人物往来社 昭和55年
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』北畠顕能公奉賛会 昭和57年

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