トップページ  > 県史あれこれ > 国人長野氏の本拠と北伊勢進出

国人長野氏の本拠と北伊勢進出


 今日は、室町時代の伊勢国を代表する国人(こくじん)長野氏についてお話します。国の人と書く国人とは、その国にいる武士のことで、国衆(くにしゅう)とも呼ばれ、幕府から任命された守護とは異なり、在地性の強い領主層でした。
 長野氏の本拠地は、伊勢と伊賀を結ぶ街道の要である長野峠の麓にあり、現在の安芸郡美里村地内に属しています。長野氏は、本来の姓を工藤と称し、史料上では『梅松論』という軍記物の建武三年(1336)に「伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉」と見えます。長野氏がいつからこの地を本拠としたかは、はっきりしませんが、特に勢力を張っていたのは15,6世紀であったようです。
 15世紀中ごろの伊勢国は、雲出川を境とし、南に北畠氏、北は安濃郡に長野氏、鈴鹿郡に関氏、三重郡に守護一色氏、朝明・員弁郡に幕府と関係の深い国人たちが結合して存在し、勢力の分布は一応安定していました。
 ところが、応仁元年(1467)に京都で乱、いわゆる応仁の乱が起こると、伊勢国にも影響が出たのです。伊勢の守護は一色氏・世保氏・北畠氏と短期間に交替し、それを契機に国人たちの勢力争いが激しくなりました。長野氏も北伊勢への進攻を意図し、河曲郡や三重郡など各地で戦い、一時は桑名まで進出しますが、結局は北伊勢の国人たちを支援する北畠氏や近江六角氏の勢力に敗れ、北伊勢からの撤退を余儀なくされます。
 そして、永禄元年(1558)には、北畠氏から具藤(ともふじ)が養子となり、北畠氏に服属したようですが、さらに信長の伊勢進攻のときには、信長の弟信包(のぶかね)が養子に入り、具藤も長野家を追われることになりました。
 現在、長野氏本拠地の美里村長野地区には、二か所に城跡が残っています。一か所は桂畑の標高約520メートルの山頂にある長野城跡で、『太平記』には守護仁木義長が篭城したと伝えられています。山頂の城郭中心部は低いコの字型の土塁が三方を囲み、周囲は急竣で、いかにも篭城には適した地形となっています。もう一か所の城は、北長野の伊賀街道沿いの標高200メートル前後の三つの連なる丘陵頂部に築かれたもので、東の城・中の城・西の城と呼ばれています。土塁や堀切り等の遺構が見られ、国人長野氏の発展過程が知れる遺跡として、山頂の城跡と共に昭和57年史跡に指定されました。

(平成2年11月 川合健之)

長野氏城実測図(『定本三重県の城』)

長野氏城実測図(『定本三重県の城』)

参考文献

『三重の中世城館』三重県教育委員会 昭和52年
稲本紀昭「伊勢国国人長野氏関係史料 上・下・拾遺」『三重大学教育学部研究紀要』35・36・38号 昭和 59・60・62年
『定本三重県の城』郷土出版社 平成3年
『美里村史』上・下巻 平成6年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る